カストリ焼酎のころ
 

 宝来家は、当初、品名ほ何も書かず、「三本十円」とだけ書いた紙を店先や店内に貼っておいた。
 しかし、お客がたいてい聞く。
 「なに、これ?」
 そのたびに豚モツと説明したが、やはり「何々」と書かなければだめらしい。い入いろ考えたが、「やきとん」とした。しばらくその名称で売った。しかし、誰も、「やきとり」がいいという。それでいつからか覚えてないが、
(ほんとはトリじゃねえが、みんながああいうんだからいいだろう)
と思って、「やきとり」と名称を変更した。
 仕入れるモツの量は、二ヵ月、三ヵ月とたつうちに次第にふえた。石油罐半分とか、多いときで七
分目とかだったのが、或る日はじめて石油罐一杯分を分けてもらった。
 私は、前途がいよいよ開けていくのを感じた。
 店に帰ると、よしがいった。
 「今日は多いわね」
 「ねぱってごれだけ買えたよ」
 この苦労多い創業期に、よしはよく働いてくれた。石油罐1杯分になっては二人では手が足りない。すると、友だちを連れてきて、モツ切り、串刺しを間に合わせてくれた.
 その日も私ほいつものように、午後1時ごろ、やきとりを焼き始めたすぐ店前に10人ぐらいの行列が出来た。
 順番がくると、お客は、焼き上がったやきとり三本を掴んで去って行く。中には、お代わりがほしくて、再び行列のうしろに並ぶ人もいる。
 私は、戦前の肉屋時代の、人とのつき合しのお蔭だと、しみじみ思って感謝した。
 やがて、石油罐一杯のモツが毎日、仕入れられるようになったとき、私はお客さんたちにいった。
 「いっぺんに六本でも九本でも売ります」
 すると 或るお客さんからいわれた。
 「おやじ、やきとり食うのに、水ってことはねえだろう。カラいのねえのか」
 そのころ、バクダンとしう名のアルコールと、カストリとしう名の焼酎が、この近辺の店でも密売されてした。
 バクダンとしうのは、主に航空燃料のエチルアルコールを薄めたものだ。ところがときどき、工業用のメチルアルコールを薄めたものを客に飲ませて、失明させたり死亡させるとしう事件が都内各所に起こった。飲んで、どんな事故が起こるか分からない危険飲料だとしうのでバクダンといわれるようになったらしし。
 カストリにしろ、バクダンにしろ、小売価格は 湯のみ茶わんか、やや小さ目のグラス一杯で400円だった。
 やきとりは手間がかかる上に三本10円だが、酒は手間がかからず、売り上げは4倍になる。
警察に見つかればヤミ販売で処罰されるが、私は酒を売ることにした。ただ バクタンは危いのでやめ カストリ焼酎にした。
カストリ焼酎は、新宿駅の隣りの大久保駅に近い朝鮮人部落で作られていた。店からも 歩して10分もかからない。
 そこの朝鮮人たちは、作ったカストリを石油罐に入れ、このマーケットに売りに来る。当時彼らは、何を作り、何を売っても、日本の警察の取締りを受けなかった。
 連合軍最高司令官マッカーサー大将(のちに元帥)は、終戦後すぐ、朝鮮人や中国人を「解放国民」として、日本の法律に従う義務を免除した。それによって彼らは 米、白パン、肉、酒、タバコ、衣料品その他、何でも自由に売買することができた。
 しかし われわれの方は 統制品や禁制品を売買して見つかれば、処罰される。だから ヤミで売買するほかなかった。
 カストリについても同じだった。私ほ、朝鮮人部落の人たちが石油罐に入れて売りに来たものを、人目につかぬように買った。
 のちには 私が水枕を持って朝鮮人部落に行き その中にカストリを入れてもらった。
 カストリ焼酎とは次のようなものだった。
 米を発酵させてどぶろくを作る。その上澄みの液体を沸とう蒸溜すると カストリ焼酎の原酒が出来る。しかし、アルコール分が65度から70度もあって強すぎる。それに水を割り、22度ぐらいに薄めると、飲用のカストリ焼酎が出来上がる。独得の強い臭みがあるが、味は悪くないし、やきとりにぴったりだった。
 或る日、石油罐をぶら下げてきた朝鮮人から、カストリを一升買った。それを入れた一升びんは、店の台の下に隠した。
 夕方、前から、「カラいのねえか」といっていたお客さんが来ていった。
 「3本」
 私は低い声でいった。
 「今日はありますよ」
 「ほんとか、よし、たのむぞ」
 元気百倍という声になった。
 「お巡りに見つかるとヤバイから、やきとりを食べてから出しますよ」
 お客さんは、やきとりをよぐ噛んで食べた。私ほ台の下にしゃがみ、一升びんから湯のみ茶わんいっぱいにカストリを注いで、お客さんに目くばせをした。お客さんは、店の柱の蔭に来て、茶わんを私から受け取り、息もつかせずに飲んだ。それから一息つき、50円を私に渡し、
 「おやじ、また明日くるからな」
と、いうことなしの大満足という顔で引き揚げて行った。
 その夜、一升びんは軽く空になった。
 やきとりを食ってカストリか飲めるという評判は、風のように速くひろがった。
 「あるかあ」
と入ってくるお客もいる。
 黙って、左手を丸めて自分の口に持っていくお客もいる。
 初め、一日一升の仕入れだったのが、またたくうちに二升になり、三升になり、五升になった。
 売り上げも、やきとりだけを売っていたときの二倍、三倍、四倍と、うなぎのばりにのぼった。
 そうなると、商売についての考え方を変えねばならないと思った。
 今までは、やきとりを売るのがすべてだった。ところが、カストリを売り出してみると、やきとりは酒の肴で、主役がカストリになった。それならば、これからは、やきとり屋という名の飲み屋になるべきではないかと思った。
 ところが、また警察につけ狙われる日がきた。
 昭和22年夏の或る日、私服の刑事が立ち寄り、店の中を見ていった。
 「何だ、あの棚の水枕、何が入ってんだ?」
 「水ですよ」
 「水入れるのに水枕なんておかしいじゃねえか」
 「入れるものがねえもんだから」
 「ふーん」
 それから何日かして、ついにカストリ入りの一升びんを見つけられた。ごまかしが利かない。謝ると、初回だったので、警告で済んだ。
 だが、何日かして、再び見つかった。一升びんには7分目ぐらい残っていた。
 「それ持って交番へこい」
 「はい」
 交番は駅西口の公園にあった。私はその一升びんをぶら下げて行った。近づくと、例の刑事が出てきた。
 それを見て、私は一升びんをぽこんと落とした。びんは石に当たって割れ、カストリは流れた。
 「あー割れちゃった」
と私はいった。
 「しようがねえ、交番にこい」
中に入ると聞かれた。
 「どこから買った?」
 「分からねえ」
するともう一人の警官がいった。
 「このおやじに聞いたって、いいっこねえよ」
 一升びんはわざと落としたものだった。
 このような事件があったが、私は、それからも、カストリのヤミ売りをやめなかった。柳に風、のれんに腕で、売りつづけた。
 こんどの場合、やきとりを売ることは禁止されていなかったから、それが強味だった。