西新宿物語

よくぞ生きて帰ってきた

昭和20年8月15日の終戦のとき、私ほ中国中部の蘇州に近い山中にいた。上海の西方100キロぐらいのところだ。 28歳の輜重上等兵で、38連隊袖山隊の自動車兵だった。
終戦は、われわれよりも中国人の方が早く知っていた。彼らが日本の国旗を降ろし、中国国旗を掲げたので、われわれも日本が負けたと知った。
昭和21年1月5日、上海の施設部前の自動車廠の庭に、帰国を待つ陸軍軍人約3000人が集合した。隊長が台の上に上がり、次のように話した。
「今から姓名を呼ばれる250人の者は、直ちに復員準備をせよ」
3000人は緊張した。 それまでにわれわれは、日本についての悪い噂をいろいろ聞いていた。
「日本国中が焼野原になり、何十万人が空襲で死んだ」
「食う物がなく、毎日餓死する者が多い」
「女はアメリカ兵に強姦されたり、アメリカ兵相手の売春婦になっている」
妻子がある者は、自分の妻や子供がどうなったかが気にかかり、1日も早く自分の家に帰りたいと願っていた。 ひとりひとり名前が呼びあげられると、呼はれた者は顔を真っ赤にして喜んだ。
「金子正巳」
と呼ばれた私は、電流が体を走ったような衝撃を受けた。 250人の姓名を呼びあげると、隊長は、
「以上終わり」
といった。 姓名を呼ばれなかった者たちは蒼白になっていた。
三ヵ月後に分かったのだが、このとき姓名を呼はれなかった者の中に、私の下の下の弟の銀次郎もまじっていた。彼は別の部隊の自動車兵だったが、お互いに知らなかったのだ。

1月7日、私は陸軍の帽子の徽章と上等兵の階級章を外し、上海からアメリカの輸送船LSTに乗った。LSTは1日半かかって、旧海軍軍港の佐世保に着いた。上陸桟橋には、国防婦人会、愛国婦人会の婦人たちが多数出迎えてくれた。
「外地にいた兵隊さん、長い間ご苦労さまでした」
情がこもったその言葉を聞いたとき、思わず涙がこみ上げてきた。
昭和17年4月に召集され、中支(中国中部)を転々として生死の間をさまよった。その間3年9ヵ月という長い年月だったが、やっと日本に帰ってきたという気持だった。 宿舎に着いてから2日目の1月10日にいよいよ帰郷することになった。汽車・電車・バスなどに無料で乗れる復員証明書を渡された。私の持ち物は、着ている軍服のほかは、あと1着の軍服と下着1揃い、毛布1枚、タオル1枚、石鹸1個ぐらいだった。それらを、上海にいたときに作った手製のリュックに詰めて背負っていた。金ほ一銭も渡してくれなかった。
幸い、千葉県佐原布佐原にある私の生家のすぐ近くに帰る、森田という2歳年上の戦友が一緒だったので心強かった。 二人ほ佐世保駅から京都行の復員列車に乗り、粗末な木製の座席に腰を下した。汽車が進むにつれて車内は込み出し、やがて通路もデッキも、身動きができないほどになった。網棚に寝る者や、デッキの手摺りにぶら下がる者もいた。用便に行くには窓から出入りするしかなかった。しかし、みんな、どんなことをしてでも一刻も早く自分の家に帰りたかった。

京都駅で東京品川行きの汽車に乗り換えた。これも同じように込んだ。
品川駅には1月11日の夜に着いた。暗いホームに裸電灯が二つだけ灯って、寒々しかった。駅もあたりも廃墟のような焼跡になっていた。 電車でお茶の水に行き、また汽車に乗って約1時間半、やっと千葉駅にたどり着いた。夜が更けていて、そこから先は明朝にならなければ汽車が出ないという。駅の外へ出ると、月が明るかったが寒かった。焚火をしている大ぜいの男の人がいて、森田君と私はその中に入れてもらった。
「兵隊さん、どこから来たんですか」
「中支からです」
「うちのやつは何某といって、やはり中支にいるんですが、会えなかったでしょうか」
50年配の人が聞くが、中支といっても日本の何倍も広いから皆目分からない。 翌1月12日朝、夜明けの列車に乗り、昼ごろ、霞ヶ浦南端の潮来に近い成田線佐原駅に着いた。よい天気だった。
「あぜ道を行こうや」
二人は線路伝いにしはらく歩き、田んばのあぜ道に入った。15分ぐらいで浅間神社の前に来た。 お参りして、そこから近い私の生家が見えてきたところで、森田君と別れた。

家に近づくと、人が何人か出入りしている。何があったのかとふしぎに思った。家は木造平家で塀はなく、障子を開けれは座敷が丸見えになる。その障子が何十㌢か開いていた。そこからもんぺ姿のおふくろが、何の用か分からないが出てきた。私は立ち止まり、緊張していった。
「ただいま」
「あれ」
おふくろはそういったきり、ばろばろ涙をこぼした。私も言葉が出てこない。
「あがれ」
おふくろがいった。私は縁側に腰を掛けてゲートルを解き、兵隊靴を脱いだ。 家の中は昔と変わりなく、十畳と四畳半の懐かしい座敷があった。十畳の座敷の中央に掘りごたつもある。私はおずおとそこに腰を下して足を入れた。 胸がいっぱいになり、涙があふれて止まらない。頭を下げているしかなかった。
「ここはほんとに俺のウチなのか、夢じゃないのか」
何べんもそう思った。
中支での三年余は、苦労などという生易しいものではなかった。 酷寒酷暑の野宿、食物のない日々、マラリヤでの40度の発熱、赤痢での生命の危機、目前での多数の戦友の戦死、などなど。

赤痢で野戦病院にいたときは凄惨だった。籾ガラの上に毛布を敷いて寝るだけで、薬も注射もない。支那竹を黒焼きにしたものが血の下痢便止め。栄養は糠を炒った玄米汁だけ。患者は負傷、病気いろいろだが、毎晩3人ぐらい死んだ。
「あいつウワゴトいってるよ。お母さんアイスクリーム食べてえの、バナナ食いてえのって。ああもうだめだこりゃ。あと2時間ぐらいで静かになるよ」
元気なのがいう。するとその通りになる。死ぬと、死んだ者の衣類や靴がきれいなら、生きている者が自分の汚ないものと取り替える。死体は裏の爆弾跡の凹地に捨てる。捨てる前に、腕時計とか万年筆とかめぽしいものがあれば取ってしまう。そういう有様だった。
昭和19年2月11日の紀元節の日は、もう少しで戦死するところだった。漢口近くの山中で、われわれ七輌のトラック隊は、二機の敵戦闘機に奇襲された。私は先頭の車の荷台に乗っていて、いち早くこれを発見、運転席の屋根をたたいて急を知らせた。車は急停車し、われわれは道の両側に逃げて伏せた。だが、後の何台かの車で戦死者が13人も出た。
それらの戦死者は近くの地中に埋めたが、その埋葬の仕方が冷酷だった。死者の片方の手の人差指か薬指に名札のついた針金を巻きつけ、手首だけを切り取った。片方の手首のない死体は埋め、手首は焼いた。そして、焼いて残った骨を集め、身近かの者にハンケチで包ませて持たせたのだ。

戦地での長い年月の間に、手紙が届いたのはたった一回だった。 妻の静からのもので、何でも家財道具を静の田舎の実家に移し、自分は農家の手つだいをして暮らしているというものだった。慰問袋も一回だけだった。東京の小学校の男の生徒からのもので、「兵隊さん有難う」という手紙が入っていた。 ウチに帰った夢は何度見たか分からない。だからこたつに入っていても、自分のウチだということが信じられなかった。

私は男七人女三人兄妹の三番目で、上に兄と姉がいる。しかし、当時妻子があったのは私ひとりだ。二五歳の妻、六歳の長女美栄、四歳の長男一己だ。 おふくろは私にいった。
「静さんは実家に帰っているけど元気だよ。子供もみんな元気だよ。こっちでちゃんと預かっているからね」
私は安心した。 おふくろは、もし私が帰ってこなかったら、私の妻子をどうしようかと思って因っていたらしい。そこへ私がパッと帰ってきた。家に人の出入りが多かったのは、私より五歳年上の長兄健一の結婚が今日決まったからだという。
この二つの喜びが重なって、おふくろはよほど嬉しかったようだ。 おやじと兄はいなかった。おやじは近所の知り合いの家に行き、兄は仲人の家に行っているという。
「じいさん呼んでこいや」
私がいうと、誰かが知らぜに行き、やがておやじがもどってきた。
「よかったなあ」
十人の子供を育てた大工のおやじも感慨無量だ。 私の子供らは、近くの親戚の家にいるというので行ってみた。二人とも元気だった。しかし、あと三ヵ月で五歳になる一己は、
「お父さんじゃない」
といって逃げた。昭和17年4月に、私が佐原の家から赤襷をかけて出征するとき、一己は満一歳とちょっとで、日の丸の小旗を持っていて私に尋ねた。
「これからどこいくの?」
今の私は兵隊服で人相風態もすっかり変わっていた。とても自分のおやじと思えなかったのだろう。

夕方、兄の健一から電話がかかってきた。
「おー帰ってきたか、よかったなあ」
兄も海軍に召集されていたのだが、内地勤務で早く帰ってこられたのだ。うちでは、男七人のうち五人までが兵隊に取られ、戦争中、おやじが町会長をしていたころ、役所から「兵士の家」という木札が渡されて軒下に掲げていた。そして、五人のうちの一人が戦死した。私の二歳年下の祐だ。彼は近衛連隊の輜重兵となり、満洲の牡丹江に行った。その後フィリピンのレイテ島に行き、米軍と戦って玉砕戦死した。役所からその知らせがあったとき、おやじはいった。
「祐が兵隊にいくとき、風もねえのに裏の浅間様の旗のぼりがひらひら落ちてきた。どうも悪い予感がしたな」
姉の夫の名は、字は違うが勇二郎といった。この人は海軍に召集された。結頼して五年たったころだ。それまで子供が出来なくてやきもきしていたら、やっと生まれた。可愛い女の子だった。とたんに召集され、戦地へ行く途中、輸送船が米潜水艦に撃沈されて戦死した。その娘は現在、いいところへ嫁にいき、幸せに暮らしているが、
「手と足がない父でもいいから顔が見たい」
といっている。

私は佐世保を出てからまる二日問、何も口にしていなかった。戦地ではそんなことは日常茶飯事だったし、そのうえこんどはウチへ帰れるという喜びで、空腹感はなかった。 今になっても、佐原の家に帰った当日、何を食ったか思い出せない。どぶろくをいくらか飲んだことを覚えているぐらいだ。

その夜、寝てから二回はど目が覚めた。そのたびに「ここはどこだ」と思い、起き上がり、立ち上がってあたりを見まわした。
翌日午後、妻の静のところに向かった。復員証明書を利用して、汽車で茨城県の竜ヶ崎駅に行った。夜遅かった。
山の中を月明かりを頼りに、奥野村久野をめざして北へ歩いた。着いたときは真夜中だった。あたり一面に田畑が拡がっている静の両親の家は、小さな平家の床屋だ。私は、真っ暗な家の戸をたたいた。
「こんばんは、こんばんは」
電灯がついて誰かが出てきた。
「どなた」
そろそろ六〇歳に近い静のおやじさんだった。
「兵隊から帰ってきた金子です」
「お-帰ってきたか、よかった、よかった」
おふくろさんも起き出してきて、安心したように迎えてくれた。しかし静はいなかった。親戚の家に行っているという。 翌朝、静を迎えに行ったが、私の姿を見ると静は信じられないような顔をした。静の実家に三日ぐらいいたのち、私と静は、静の姉夫婦の家を訪ねた。東京湾内房の上総湊からバスで四〇分ほど山に入った環という村で、大きな農家の離れに住んでいた。静の姉の夫が家主に頼んでくれて、私ら親子も、その屋敷の納屋に住むことができるようになった。
長い間離れ離れになっていた親子四人が、やっと一緒に暮らせると思うと、口ではいえない嬉しさがこみ上げてきた。

さっそく佐原からは二人の子供をここに移し、久野からは家財道具を運んだ。静の話では、戦争中は、親戚といっても居侯の身だったので、親子三人は、ずいぶん辛い目にあったようだ。久野の家でも家族の食いぶちだけで精いっぱいだったから、静の母親は孫たちが長居することを嫌った。娘の美栄の記憶によると、雪の降る日、田舎道で母親の静が、
「死んじゃおうか、死んじゃおうか」
といっていたという。

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昭和20年6月ごろ、静は子供二人を連れて農家の田植えの手伝いをしていた。そこへ米艦載機P51が超低空で飛んできて機銃掃射を始めた。機銃弾が稔りを上げて飛んでくる。大急ぎで子供らを連れて大木の蔭に隠れ、体を縮めていた。敵横は二回ほど反復攻撃を加えてから、やっと飛び去った。この銃撃で、静らから5,6mの間近かなところにいた村人が数人殺された。田植えに子供らを連れていったのは、そうすれば子供らもめしを食わせてもらえたからだという。
終戦になり、米軍が近くの霞ヶ浦に来たとき、誰からかは分からないが、女はみんな青酸カリを渡された。静も、米兵に暴行されそうになったら死のうと思っていたようだ。

さて、みんなこうして苦労をしたが、やっと一緒になれた。これからは、何としても幸せをつかまなければならない。そのためには、まず私が働き始める必要があった。
金は、家財道具のめぼしいものを売るなどして、どうにか二〇〇〇円をつくった。だがこれだけでは、親子四人が一ヵ月も暮らせない。といっても、何をしたらいいのか、自分ひとりだけでは分からなかった。