西新宿物語

ヤミのかつぎ屋ふり出しに

私の二歳年下の妹よしは、新宿十二社でバラック住まいをしながら、食品関係の商店で働いていた。十二社は、超高層ビル街の西の町で、今は西新宿四丁目となっている。私は軍服でリュックを背負い、復員証望日を駅員に見せて汽車、電車に無料で乗り、新宿駅に向かった。当時は、何かの証明書がないと、汽車には乗れなかった。復員証明書は、軍隊から家に帰るまでの交通はすべて無料というものだ。しかし私は、しばらくの間、それ以外のことにも利用して、無賃乗車をつづけた。まあ、あれだけお国のために戦って、一銭も出してもらえずに放り出されたのだから、大目に見ていただきましょう。
当時の新宿は、駅東側も西側も一面に焼野原で、ところどころに廃墟のようなビルが残っていた。西口駅前には、ござの上に、蓋のない鍋釜とか純綿と書いたタオルなどを並べて売っている人がいた。タオルはスフで、それも一回使ったようなものらしい。そのほか、衣料品、靴、石鹸その他の日用雑貨を売る露店がいっぱい並んでいた。駅の北側、現在のわれわれの商店街のところには、よしず張りの屋台が三、四〇軒並んでいた。おでん、ふかしいも、ゆであずき、天ぷら、海草のつくだ煮、古本などを売っている。聞けば、つくだ煮星のあるじは元宮様で、古本屋のおかみは元陸軍大佐夫人だという。ずいぶん変わった世の中になったと思ったが、人間みな同じになったのかという気持にもさせられた。

このころ、″たけのこ生活″という言葉がはやったが、露店の商品にも、売り食いのための家財がいろいろ出ていたようだ。  何を求めるのか、沢山の人びとが露店に群がっていた。私のように陸軍の兵隊服もいれば、海軍の士官服もいる。国民服もいれば、着物もいる。着物にモンペの女性もいるし、洋服にズボンの女性もいる。しかし、だれもが生活に追われて、さまよっているようだった。
西口一帯は、天気のいい風の日には真っ赤な土埃りが舞い上がり、雨が降ると下がどろどろになるというところだった。
駅から妹のところまでは歩いて十五分だった。再会を喜んだあと、どんな商売をしたらいいのか、いろいろ聞いてみた。すると、ブツ(物)さえあれば何でもいい、例えば、さつまいも、じやがいも、魚、にわとり、南京豆、米、うどん粉、あずきなど、何でも売れる。ただ、米やうどん粉は統制品で、ケイザイ(経済係の警察官)に捕まると没収されるから、そのつもりでやらなけれはならないという。とにかく、物をかついで新宿駅に来れば、改札口の前には何人も受人が待っていて買ってくれる。駅西口一帯は、テキヤ関東安田組の縄張りだが、そういう売買だったら、いちゃもんはつけられない、ということだった。戦前の友人が新橋の松田組マーケット(露店市)で鰯なんかを焼いて売っていると開いたので、新橋へ行った。聞くと、やはりブツさえあれは商売になるという。上野のアメ横の露店市にも行って、二、三の店に当たってみたが、みな同じだった。私は、まず、さつまいものかつぎ屋をやろうと思った。統制品の米とかうどん粉を運んで途中で捕まっては一巻の終わりになるからだ。

その日私は、妻子のいる上総湊には行かず、佐原の生家に泊めてもらった。翌日、軍服でリュック背負い、佐原からバスで、茨城県の鹿島に行った。今では、鹿島神宮と鹿島港で全国にその名が知れているところだ。この辺の農村では、さつまいも、瓜、西瓜、落花生などが穫れる。今は一月だから、蓄えておいたさつまいもがあるはずだ。私は、未知の農家に、飛び込みで入って行った。四〇代の主婦がいた。
「きつまいも、少し出してもらえねいかい」
「東京かい」
「そうです」
もう何人も買い出しに来ているらしく、珍しがらない。また簡単には出してくれそうもない。
「兵隊はどこへ行ってたんかね」
「中支です」
「うちの弟も中支なんだが、開いたことあんめえか」
「そういう人は聞いたことなかったなあ。なにぶんにも広いところだから」
「かみさんも子どももいるんかい」
「いるんだが、戦争でアパートが燃えちまって、まだばらばら暮らしなんだ」
「そらあたいへんだね。んじゃ今日は、一五貫も持ってくか」
これがかつぎ屋初の買物だった。一貫メ(3.75kg)いくらで買ったかは覚えていない。
さつまいもをリュックに詰め、バスで佐原にもどり、そこから汽車で新宿に向かった。成田を過ぎたとき、制服の警官が三人、車内に入ってきた。網棚や通路に置いてある包みを棒でたたいて歩く。

西新宿物語イメージ画像

「これ誰のだ?」
米が入っていたのだが、誰も返事をしない。するとその包みをデッキへ持っていった。警官のひとりが私のところに来た。
「何これ?」
「さつまいもです」
「米入ってないか」
「入ってません」
「アンコで入ってんじゃないか」
「アンコ?」
「ちょっと開けてみな」
その警官は、開けたリュックの中に手をつっこんで掻きまわしたが、「うん、よし」といって去った。
隣りに立っていた若い航空服の男がいった。
「あんた初めてだね」
アンコというのは、さつまいもの間に米を隠しておくことだという。米を見つけられても名乗りでないのは、名乗っても返してくれないからだという。 新宿駅に着いて改札口を出ると、三〇歳ぐらいの、オーバーを着た男が近寄ってきた。
「なーにそれ?」
「さつまいも」
「いくら」

人目のつかないところでさつまいもを渡し、金を受け取った。それから、どんなものをいくらで買ってくれるのか、明日もいもが要るか、などを聞いて別れた。 三、四〇軒の屋台が並んでいるところに行き、ふかしいも屋や今川焼(いもあんこ)屋をのぞき、商売の様子をたずねた。いもを持ってくれば買ってやるという。

この日は再び佐原に泊り、翌日も鹿島の農家でさつまいもを仕入れて新宿へ運んだ。その後だんだん慣れてくると、二五貫(約九四kg)までかつげるようになった。 上総湊の妻子のところには、親子の食物をもらっていた。娘の美栄は四月から小学校になる。うかうかしてはいられなかった。
そのうちにややゆとりができたころ、知り合ったかつぎ屋に誘われて、成田ふきんの駅から上野のヤミ市に米を運んだ。〃駅渡し〃といい、ヤミ商人が仕入れた米を、指定の場所へ運ぶ人足だ。しかし、警官に捕まると、米代は損しないが、運び賃はもらえない。これは、たいした金にならなかった。五回に一回ぐらいの割りで取締りにあい、米は没収された。自分の金で農家から米を買って、新宿や新橋に運んだこともある。うまくいけば儲けは大きかったが、やはりときどき取締りにあって没収されるから、割りのいい商売とは思えなかった。 南京豆やにわとりを運んだこともある。一羽七,八〇円になり、たいへん儲かった。しかし、農家でも、にわとりを売るようなところはめったにないので、三回ぐらいしか商売ができなかった。

十二社の妹のバラックや、佐原の家にも、そうたびたび泊めてもらうこともできないので、新橋駅や新宿駅で野宿することが多くなった。当時は、屋根のある駅ではどこでも、何百人かの人が野宿していた。駅ばかりではない。焼けビル、地下道、神社、寺など、雨風が凌げるところには、家のない人がごろごろ野宿していた。戦争孤児たちは浮浪児となり、乞食、掻っぱらいをして生きていた。小学校一年生ぐらいの子供が拾ったタバコの吸がら(シケモク)に火をつけてふかしたり、五年生ぐらいの女の子が売春をやっていた。私も、新橋駅で野宿をしていたとき、浮浪児のスリに財布を盗まれ、参ったことがある。
或る日、新橋駅近くで、ヤミタバコのラッキーストライクに火をつけたとき、うしろから肩を掴まれた。米軍のデカいMPだった。身体検査をされ、タバコと、兵隊服の下に着ていた米軍のセーターを取り上げられた。 新橋はどうもエンギがよくなかった。

上総湊の妻子のところには、一週間に一度ぐらい帰り、そのつどいくらかの生活費を静に渡していた。そのときに下着を洗ってもらうのだが、いつだったか、
「しらみがいたよ、シャッツに」
といわれた。野宿をしているうちにたかったのだろう。
四月になり、娘の美栄は住居の近くの小学校に通いはじめた。 私は、毎日、かつぎ屋をつづけた。体重が復員当時より10kgも減った。
(こんなことをつづけていたんでは、遠からず参ってしまう)
汽車の中で考え込むことが多くなった。