師走の屋台のぶた汁屋

昭和21年9月ごろ。新宿駅西口の屋台でふかしいもを売っている山根さんという人がいた。私より四歳年下で海軍帰りだった。それまでに私は何度もいもを買ってもらっていた。その山根さんに聞いてみた。
「ここで屋台を譲ってくれそうな人はいねえだろうか」
「あんたがやりたいの」
「うん」
「うちの叔父が譲るかもしれねえな。聞いてやるよ」
その人は、最近まで今川焼屋をやっていた。しかし、近く別のところでパン屋を始めるので、屋台は三〇〇〇円で譲ってもいいということだった。それを聞いて私は、(助かる)と思った。だが、すぐにはそれだけの金がなかった。
「商売を始めて一ヶ月たったら払うということでどうでしょうか」
本人に会って頼むと、すぐに承知してくれた。私は、今まで暗かった目の前がぱっと明るくなったような気がした。
屋台の場所は今の第一宝来家ふきんだった。

こうして私は、苦しいかつぎ屋から脱け出し、小さいながらも一軒の店のあるじとして、商売の第一歩を踏み出すことになった。そこにある何十軒かの屋台は、終戦直後、安田組が作ったものだ。安田組は、一軒の屋台から権利金一〇〇〇円を取り、別にショバ代(場所代)として毎日二円五〇銭を取った。しかし、屋台のあるじが変わっても、新たに権利金を取るということはしなかった。また屋台では、何を売ってもかまわなかった。
世話になった山根さんは、現在仲通りのやきとり屋のあるじで、商店会の副会長もつとめている。

私の屋台の目の前の屋台はぜんざい屋で、目立って繁昌していた。初商売からぜひ成功したいと気負っていた私は、それを真似することにした。
小豆を買い込み、釜で湯を沸かし、沸とうしたところに、それをぶちこんだ。燃料は、進駐軍の労務者が担いできた空箱の切れっぱしだった。ところが、なかなかやわらかくならない。三〇銭、五〇銭と出して買った薪がどんどんなくなる。五時間も煮たが、まだ固い。おかしいと思って、たまらずに、前のぜんざい屋のあるじに聞いてみた。すると、あずきなんてえものは、水から弱火で煮て、水が引いたらびっくり水を差して、また煮るというものだと教えてくれた。
やり直してみたが、うまくいかない。もほやこれまでと思い、そこへ黒砂糖のようなぶどう糖を入れて、一杯五円で出してみた。前の店では客があふれていた。あふれた中から白衣の傷夷軍人が私の屋台に来た。ところがその人は、うちのぜんざいを口に入れたとたんに豆を吐き出し、つゆだけを飲み、だまって五円を置いて、また前の店に行ってしまった。私は呆然としながらそれを見送るしかなかった。
あとで聞いてみると、ぜんざい屋のおやじさんは、もともと菓子屋だった。

ヤマっ気を出して失敗した私は、こんどは無難と思われるふかしいも屋をやることにした。素人でもできる。皿に大小のいもを二本か三本のせて五円で売った。まあまあの売れ行きで、これはほっと一息つき、しばらくつづけた。場所代は、毎夕、安田組の会計係が、「お願いします」といって取りに来た。この人はおとなしくて、やくざには見えなかった。
青梅街道寄りの屋台では、安田組の子分たちもふかしいも屋をやっていた。しかし、売れ行きがよくなかった。そのために、ほかのふかしいも屋に来ていんねんをつけたり、いもの皿をひっくり返したりする。私はだんだん嫌気がさし、ほかの商売に変えたくなった。
或る日ふと、ぶた汁のアイデアがひらめいた。12月はじめだった。

ぷた汁といっても、豚肉は統制品で使えない。豚の骨を入れた釜湯に、よく洗った皮つきじゃがいもを四つ切りにしたものと、ぶつ切り大根と、大娘の葉っぱも入れて、味噌で煮込んだ。それでも豚の脂が浮き上がり、匂いもぷ-んとよく、当時としてはたいへん旨いものになった。どんぶり一杯五円で出したが、これは一日に三〇〇杯以上も売れた。
雨合羽・制帽の警官が来て、ふうふういいながら熱い味噌汁を旨そうにすすっていたのが今でも目に浮かぷ。

西新宿物語イメージ画像一日に二〇〇〇円近い売り上げになったが、その原価ほ六〇〇円ほどだったから、初めての大ヒットだった。
(これでおれもやっと男になれそうだ)
と思うと、身内が熱くなるようだった。
だが、「好事魔多し」の諺通りのことが間もなく突発した。
12月中ごろ、駅西口前の公園では、″新宿復興祭″が連日開かれていた。臨時に作られた舞台で、プロの芸人や素人たちが歌い踊り、沢山の人を集めて景気をつけていた。復興祭の何日目かの夜、商売繁昌で夜遅くなった私は、十二社の妹よしのバラックに泊めてもらった。
翌朝、星台が並ぷ場所へ来てみると、表側一面に紅白の幕が張られてあった。裏に廻って見て、驚いた。数十軒あった屋台がぜんぷ消えていた。呆然としていると、近所の人がいった。
「ゆうべ燃えちゃったんですよ」
私ほふと、黒人米兵が、或る屋台でメチルアルコールを飲まされ、死んだとか死なないとかの事件があったことを思い浮かべた。

「マッカーサーの命令で燃されたのかね」
生活の手段を絶たれる不安を感じて、私は聞いた。
「いやあ、電気工事に釆ていた電気屋が、電気コンロをつけっぱなしで眠り、それが過熱して火事になったんですよ」
私はがっかりしたが、その言葉の中に一縷の望みを覚えた。
(マッカーサー命令で燃えたのでなければ、ここでまたやれるのではないか?)
そこへ安田組一番の兄貴分が、二人の弟分を従えて現われ、集まっていた屋台の関係者たちに向かっていった。
「いいかお前ら、焼けたところには、これからマーケットをつくる。そこへお前らを入れてやる。こんどのは、土台のある上等な一軒のウチだ。しょぼしょぼしねえで元気を出せ」
希望を託したくなるような言葉だった。私はそれを聞きながら思った。
(そうなるかもしれない。しかし、そうならないかもしれない。ただ、どちらにころんでも生きられるように頑張るしかない)

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