初めてやきとりの煙りが流れる

火事で店がなくなり、振り出しにもどった私は、これから何をやるのがいちばんいいかを考えた。いっそヤミ屋になろうかと思いながら、上総湊の妻子のところへ行ったり、新橋の露天市の友人のところへ行ったりした。友人は、鰯やいかのバタ焼きを売っていた。いま何もすることがないというと、手伝わないかといわれた。ぶらぶらしているよりましだと思い、3、4日手伝った。1日200円か300円もらった。″ニコヨン″という言葉が生まれたのは、昭和24年6月に、東京都が失業対策事業の日当を245円と決めたあとだ。だから、このころの私の日当は少ないといえいえなかったろう。しかし、妻子を抱え、先のことを考えると、長くはやっていられない。
(今は物と命と引き替えのような世の中だ。ありきたりのことをやっていたって、まとまった金を掴めるわけもない。ヤミ屋になって荒稼ぎをするしかないのではないか)
こんな考えが盛んに湧いてくる。

そのころ、或る仲買人から、にわとりが手に入るが、タイアップして売らないかという話があった。戦前、私は精肉問屋で働いていたので、肉についてはくわしい。そこを見込まれたのだ。 私はその話に乗って、仲買いが持ってきたにわとりをつぶし、上野、浅草方面の肉問屋に売りに行った。これは儲かった。1週間ぐらいの間に延べ150羽ばかり売りさばき、1万円近い金を握った。しかし、悪いこともやった。死んだトリに餌を食わせて目方をふやしたのだ。麦に熱湯をかけてふくらませ、トリの口から棒でつっこむ。商売仲間では″ラッパ″と称したが、これをやった。
すごい奴になると、トリの尻から石をつっこんで目方をふやして売った。何日かたって問屋に行くと、店員がいう。
「なんだこないだのトリは。でかい石食ってたぞ。ずいぶん丈夫なトリもいたもんだな」
私は石をつっこむ度胸はなかったが、″ラッパ″はやった。

そんなことをしているうちに、火事になった場所に、5、60軒の新しいバラックが建った。火事になってから10日ぐらいのもので、まだ正月前だった。 火事で屋台がなくなったときも夢みたいだったが、ずらりと立ち並んだ真新しいバラック街を見ると、これもまた夢みたいだった。 火事のあと、兄貴分が来て、みんなの前で威勢のいい話をしたが、その言葉通りのことをやった。それも、「一夜明けたら、もう建っていた」という速さだった。
このあと安田組は、正月が明けるとすぐ、駅西口の真ん前一帯にも、大規模のバラックマーケットを急造していく。このことは、のちにまた述べたい。
私らの屋台があったところに建てられた新バラックは、間口7尺、奥行9尺の木造平屋だった。材木はふつうの杉だ。敷居があり、屋根があり、三方は板張りされている。しかし、土台といっても、地面の凹んだところには石や木を挟んで間に合わすというしろものだった。中はからっぽの土間で、戸も入っていなかった。いってみれば田舎の物置みたいなものだ。

話によると、このバラックの権利金は1万円だという。すると、戸をつけたり、中の設備をつくったり、商売の材料を買うとなると、合計1万5000円以上用意しなければならない。 しかし私は、(これから俺の生きる場所はここしかない)と思った。トリで稼いだだけの金ではまだまだ足りないが、何としても一軒を確保して、ここで勝負をしたいと思った。 そこで私は、安田組の朝信組長に会いに行った。
安田組の事務所は、新バラック街からすると、青梅街道の向こう側で、国電大ガードのすぐ横にあった。木造平屋だが、かなり大きい。組長は40代で、精悍な顔をしていた。
私はいった。
「店を一軒お願いしたいんですが」
「ああ、お前んとこは、ほんとはもっと取るんだが、前からいたし、火事にも会ったから、1万円でいいだろう」
「でも、月賦にしてくださいよ、おやじさん、ゼニがねえから」
「よし、お前は特別だ。2回払いにしてやる」
私は、(助かった、これで第一の障害は乗り越えられた)と思った。

昭和22年1月はじめ、新築バラックで私は蓬莱家という屋号のラーメン屋を始めた。粗末な木のカウンター、というより台があるだけで、腰掛けもない店だ。前の通りは土のままで、店の中も土間だった。 店には板戸がつくようにしたが、そのほかに屋根裏部屋も自前でつくった。天井に粱を通し、その上に板を張り、ござを敷いた。部屋の広さは、横が店の幅よりやや小さくて約2㍍、縦が店の奥行の6割ぐらいで約1㍍70㌢だった。しかし高さがなかった。店の入口の上にあたるところで1㍍10㌢、奥の方で90㌢ぐらいしかないきゅうくつなものだった。取り外し自由の小梯子で、店の奥からそこへ上がり下りするようにした。でき上がったところで、私は屋根裏部屋にふとんを持ち込んだ。 蓬莱という文字の意味はいろいろある。中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山とか、台湾の異称とか、富士山のような霊山の美称とかだ。しかし、ラーメン屋向きの名前だと思った。
私は、裸電灯の下で、石油罐に水とたくさんの豚の骨を入れて、一晩中、丹念にラーメンのスープをつくった。それから上に上がって、午後9時ごろまで寝た。
商売は昼少し前から始めるので、それまでに、ラーメンの釜の湯を熱くした。 味つけは醤油、薬味は葱、それだけだった。ぶっかけどんぶり1杯10円で出したが、これがすごく売れた。ぶた汁の経験を生かして勝負を賭けたのが当たったのだ。 やがて沢山の人たちが、大豆やさつまいもが入った冷たい弁当を持って、うちのラーメンを食いに来るようになった。昼休みに、銀座からわざわざ来る人もいた。よほど旨いと思ったのだろう。
(いい調子だ)
と思ったが、やがて問題がまた生じた。

何日かたったころ、私服の経済係刑事が来て、ラーメンに使ううどん粉は統制品だから、売ってはいけないという。
「へいへい」
と頭を下げた。しかし、そのまま止めたら、親子4人が食っていけなくなる。そこで、刑事の姿が見えないときに売った。
近所の店で、頑固なおやじがいた。何べん警官にいわれても、頑として禁制の米飯を売るのを止めない。1日に3回も警察に出頭させられ、そのたびに始末書を書かされ、ハンコを押さされる。ところが、店に帰ってくると、またすぐ米飯を炊き始め、黙々として売る。
「たいしたもんだ」
と感心して、私もずいぶん頑張った。しかし警察はもっと頑張り、私は根負けした。ラーメン屋は止めたくなかったが、
「じゃあやめます」
と、降参した。
ラーメンは、葱のほかに、海苔を入れたり、竹輪を入れたりするところまでいったが、チャアシューを入れないうちにお手上げになった。その間、約3週間ぐらいだった。

時、さつまいもをつぶし、あずき色の色粉とサッカリンを入れ、掻きまぜたものをアンコにした今川焼がけっこうはやっていた。皮がうどん粉だから、それも警察にやられるだろうと思ったが、ごまかしがきくという。うどん粉にわざわざ色粉をかけて黒くし「木の実から作った代理用品だ」といえば、通るというのだ。ラーメンに代わるいい物が考えつかないでいた私は、取りあえず、それをやることにした。
3、4日やってみると、売れ行きは悪くない。そこでもっと沢山つくることにした。十二社の妹にわけを話して金を借り、浅草橋に行ってヤミのうどん粉を大量に仕入れ、冬だというのに汗をかきながら背負ってきた。ところが、戻ってみると、隣りの店の鈴木さんが、渋い顔をしていった。
「明日から、今川焼もやっちゃいけねえんだってよ」
私は「あーっ」と思った。

ラーメンと今川焼で失敗した私は、統制品のヤミ商売は長続きしないのでだめだと判断した。そのころ、はす向かいの水仙屋が、進駐軍の残飯を材料にしたシチューで、えらく儲けていた。私は残飯を売るのは感心できないと思っていたが、ほかにいい商売がなければ、好きだ嫌いだなどとはいっていられない。この際おれも残飯シチュー屋になろうと腹を決めた。
水仙屋のおやじの山田さんは、私と同年輩だが、見栄も外聞もおかまいなしの変わり者だった。
のちに、この近辺の酒場のことを描いた「どぶ」という面白い映画がつくられて評判になったが、彼はその主人公のモデルだった。
その山田さんが私に教えてくれた。
「進駐軍の残飯が手に入れば、それにじゃがいもだの大根だのをぶっこんで、何倍かにふくらませて、シチューをつくるんだ。そいつを売れば、ガッパガッパ儲かるよ」
私は、芝浦の屠殺場前の米軍キャンプで掃除番をしている戦前の知り合いを思い出した。その人は、或る大きな牛肉問屋の番頭をしていて、私は長年親しくつき合ってもらっていた。

翌朝、米軍キャンプにその人を訪ねた。
「食うに困ってるから、残飯を売ってもらいたいんだよ」
「残飯をうれったって、そいつは無理だなあ。分かったらクビになっちゃうよ」
「なんとかなんめえか」
「むずかしいなあ」
「残飯ってどんなもんかね」
「残飯ったって上中下とあって、上はマッカーサー命令で戦災孤児に食わせろということになってるよ。パンの半分とか、ハム、ソーセージの残りとか、豚のかたまりとか、チーズやバターの残りなんかで、いいところだ。中はパン、肉、野菜の食いかけとか、スープ、シチューの飲みかけで、ときどきタバコの吸ガラや、牛乳びんの蓋なんかが入ってる。下は、パン屑とか肉のほとんどついていない骨とか、汚れた野菜とか、食い残しのフルーツとかで、使い古しのたわしやタバコの吸ガラや、使ったサックまで入っていることがあるよ」
「中をなんとかなんねえかね」
「いくらお前だってだめだよ。それよりお前肉屋だったんだろう。前が屠殺場なんだから行ってみろよ。豚が少しぐらいつぶれているんじゃねえか。モツは統制品じゃないし、それを分けてもらえば、煮込みかやきとりが出来るだろう」
それを聞いたとき私は、暗闇に一筋の光りというのは、こういうことかと思った。お礼をいって、胸を躍らせながら、屠殺場に入って行った。そこには、昔の顔なじみが何人もいた。

太平洋戦争が始まるしばらく前ごろから、牛豚肉は配給制度によって売買されるようになっていた。当時私は日山商会卸し部の責任者で、中央区、足立区などへ肉を配給する仕事をしていた。そのために、屠殺場へ行っても、配給係として、そこに働く人たちとは、切っても切れない親しいつき合いをしていた。現場責任者の鈴木さんに会って私は頼んだ。
「兵隊から帰ったばかりで、いま死ぬか生きるかで困っている。モツを分けてくれ」
「いやあ困った人に来られちゃったなあ。出せねえとはいえねえし、出せるともいえねえし、困ったなあ。豚は今日は多い方で25頭つぶした。だけど、見てのとおり、ざる持ったり、かご持ったりして並んでいる人たちに分けなくっちゃなんねえ」
そこには、ざるを持った女の人とかおじいさんが並んで、モツを買いにきていた。鈴木さんはいった。
「しょうがねえ、明日来てくれ」
翌朝私は、唐草模様のふろしきで包んだ石油罐をぶら下げ、胸が高鳴る思いをしながら出かけて行った。品川駅の裏口からバスに乗り、屠殺場前で下りた。買い出しの人びとがまだ来ていないころだった。「今日は頼むよ。生死の境で、一生のお願いだ」
私は必死の思いで鈴木さんに頼んだ。
「今のところ、これが精いっぱいだよ」
そういって鈴木さんは、石油罐に半分ぐらいのモツを分けてくれた。私は、極度の緊張がいっぺんに解けていくのを感じた。
「有難う、有難う、助かるよ」
男泣きに泣きたいくらいだった。モツは、今みたいにポリエチレンやビニールの袋などないときだったので、石油罐にじかに入れた。私は、モツが手に入ったらやきとりをやりたいと思っていたので、1本いくらぐらいで売ったらいいかを知りたかった。鈴木さんはいった。
「いま3本で10円ぐらいのもんだね」
やきとりというか、モツ焼きは、新宿ではまだ見かけなかった。しかし、鈴木さんの話によると、密殺された豚や牛のモツが、都内のどこかで売られているようだった。
私は、豚モツが入った石油罐を唐草模様のふろしきに包み、右手にぶら下げ、鈴木さんに重ね重ねのお礼を述べて帰途についた。辺りの景色が、来るときと違い、まるで生き生きとしているようだった。

品川駅から山手線の電車に乗った。私は、石油罐をふろしきに包んだまま床に置いて、ぼんやりしていた。しばらくしたとき、近くの2、3人の乗客が、変な顔をして私をよけた。石油罐から、血のようなものがしみ出していた。
11時前に新宿駅に着き、十二社の妹よしに電話をかけて、すぐ店に来てくれるように頼んだ。店に着いた私は、モツを細かく切った。間もなくやって来たよしには、割りっぱなしの竹にモツを刺してもらった。
それから私はタレをつくった。代用醤油にサッカリンを入れ、片栗粉をまぜたもので、原始的なものだった。午後1時ごろまでに、店先の火鉢の炭を真っ赤にした。炭は1俵700円か800円の安物だった。
私は相変わらず兵隊服だったが、鉢巻を締め、米屋か酒屋のような前掛けをして、古うちわを持った。品名は何も書かず、「三本十円」とだけ書いた紙を2枚、客が見えるところに貼りつけた。

店の前はよく人が通る。いよいよ勝負のときがきた。頃合いを見はからい、私は、モツの串刺しを何本か、壺のタレに漬け、火鉢の上にのせた。白い煙りとともに、タレつきモツの香しい匂いが立ちのぼり、ゆるゆると外に流れて行った。戦後の西新宿で初めてのやきとりの煙だった。
たちまち通りがかりの人が2人、3人と寄ってきた。誰もが労務者のような服装だった。その人たちは、焼き上がらないうちに、待ち遠しそうに、台の上に十円札を置いた。私は、皿の上に三本のやきとりをのせて、ぽんぽんと台の上に投げた。お客さんたちは、三本のやきとりを掴み上げると去って行った。そのうちに店前は黒山のような人だかりとなり、お客さん同士で、
「おれが先だ」
といい争いを始めた。私は黙って下を向いて焼きつづけた。焼き上がると、三本ずつ皿にのせては、ぽんぽん投げる繰り返しで、休むひまもなかった。
「刺し終わったよ」
よしがいったときは、もう売り切れになっていた。午後3時半ごろで、売り上げは約1000円だった。やきとり商売の手ごたえは、今までになくずしりとしたものだった。今日の売り行きは、ほんとに羽が生えて飛ぶようだった。これならば、仕入れさえうまくできれば、まだまだいけると思った。それにモツは統制外だから、何の心配もなくやれる。
(こんどこそ男になれるぞ)
と思うと、武者振るいが出てくるような気持ちがした。

残念ながら、このやきとり屋創業が、昭和22年の何月何日だったかを覚えていない。ラーメン屋からの経過をたどると、2月か3月の何日かになるはずだ。
ところで、やきとりがなぜこんなに売れたかといえば、当時の食糧事情がそれほど悪かったからだというほかない。
それを示すショッキングな事件が2つある。
昭和22年2月18日に、東京都で22歳の女性が野犬に食い殺され、大騒ぎとなった。野犬も飢えた狼か山犬同然になっていた。
同年10月11日に、配給食糧だけ食べて暮らしていた裁判所の山口良忠判事が栄養失調で死亡した。法律に違反しないで生きていたら死んでしまった。だから、生きていた物は誰でも、ヤミの物を口に入れていたことになる。
現在50歳以上の人は、生々しい記憶を持っているはずだが、あのころ、スイトンというのが全国にはやっていた。うどん粉に水を入れてこね、口に入る大きさにちぎり、大根、にんじんなんかを入れた醤油汁で茹でたものだ。しかし、当時のうどん粉は黒くてぱさぱさしていて、味も素っ気もなかった。野菜にしても大根、にんじん、ごぼうなんかはかんたんに手に入らない。だから、さつまいもの葉っぱのついた蔓をぶち込み、醤油がないから塩汁にした。これでは目をつぶって胃袋に流し込むしかなかった。

こんな世の中だから、やきとりが、砂漠のオアシスみたいになったのだろう。
やきとり屋第2日目から、私は屋号を蓬莱屋から宝来家に変えた。蓬莱屋はラーメン屋風だし、商売もうまくいかなかったからだ。私は、初日の大当たりからして、宝来家がぴったりだと思った。
店はその後、連日大繁昌だった。連夜ともつけ加えたいところだが、モツは毎日、明るいうちになくなった。こんどは、警察も何もいわないし、安田組もいやがらせをしなかった。

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