西新宿物語

親子四人の屋根裏ぐらし

屋台時代までは、一週間に一度ぐらい、私が上総湊の山に住む妻子を訪ねて、そのつどいくらかの生活費を静に渡していた。静も付近の農家の手つだいをして食物をもらっていたので、食うに困ることはなかった。さいきん静はそのころのことについて、次のような打ち明け話をした。
「今までお父さんには、ずいぶん『てめえはバカだ、てめえはバカだ』っていわれたり、ほかのことでもいろいろ口惜しい思いをさせられましたよ。 だけどあのころは、来るたびに金を置いてってくれたでしょう、ほんとに助かりましたよ。自分が食べなくても、私たち親子を食べさせてぐれたんだから。 戦争中、子供二人を抱えて、あっちでもこっちでも嫌な顔をされて、何べん死のうと思ったかしれませんよ。戦争が終わっても、お父さんが生きて帰ってくるとは思えませんでしたね。だから毎日どうしようどうしようと思ってました。奥野村の小学校の同級だった男の人たちはみんな戦死戦死で帰ってこなかったでしよう。 それがちゃんと帰ってきた、裸一貫でしたけど。私らには神様がついているんだなと思いましたよ。 生命って尊いものですね。長年ずいぶん苦労もしたけど、今はこうして、みんな幸せに暮らせるようになったんですから」
バラックの店が出来ると、私は屋根裏の狭い部屋に住んだ。すると、妻と子供たちが、土曜日曜にかけてこっちへ来て、親子四人がこの狭いところで、坐ってしゃべったり、食ったり、寝たりするようになった。
娘の美栄は七歳で、22年4月から小学校の二年生になった。聞けば、いままでのところ、学校の成績は一番だという。静の姉の主人がやかましくいってくれて、よく勉強したらしい。弟の一己も、四月から小学校一年生になった。軽い小児麻痺で、右腕右脚が少し不自由だが、ほとんどふつうに歩けるし、物もらくに持って動かせる。心配ない。

しかし、私ら四人家族の離れ離れの生活は、私の出征以来五年以上もたったというのに、まだつづいていた。
私と静が結婚したのは昭和13年で、私が二一歳、静が一八歳のときだった。そのころ私は、日山商会の卸し部責任者への昇進が決まっていた。主人から世帯を持つようにといわれ、或る先輩の紹介で見合いをした。それが静だった。 結婚して私らは、明治座に近い浜町のアパートで新婚生活を始めた。
昭和14年12月に長女美栄が生まれた。太平洋戦争が始まる八カ月前の昭和16年4月に長男一己が生まれた。 戦争が始まり、私は召集された。二人の子供を抱えた二一歳の静は、東京では生きていけず、茨城県奥野村の両親の家に身を寄せた。ところが、そこでも静ら親子三人を養うほどのゆとりがないので、美栄と一己は、私の生家や親戚に預かってもらうことが多くなった。
戦争が終わり、私が復員し、親子四人は、千葉県上総湊に近い環村の農家に借家ずまいをした。しかし私だけは離れて働かねばならなかった。 幸い、やきとりで商売の道が開け、その稼ぎで、小銭もいくらかずつ貯まってきた。

昭和23年秋、私は、親子四人が一緒に暮らす住居の土地を買う時機が来たようだと思った。
10月はじめ、私は自転車に乗って、百人町に出かけた。店から三分ほど北へ走ると、国電中央線の大久保駅西側の原っぱに出た。あちらこちらに、土を三〇㌢ほど盛り上げて、周りを縄張りした土地がある。大島土地という不動産屋の分譲地だった。
見てまわると、その分譲地に隣接して大人の背丈ほどの雑草が生い茂っている土地が目についた。通りに面して、場所も広さも手ごろなので、私はそこを買いたいと思った。来合わせていた地主に当たってみると、そこは親戚の者が家を建てるので、売れないという。やむを得ずに私は店に帰った。 二、三日すると、地主が私の店に来た。あの土地の南側の土地ではどうかという。
「いやあ、表通りのあの土地じゃないとまずいなあ。子供がデカくなったら、タバコ屋でもやろうと思ってるからねえ」
その土地は四二坪で、売るとすれば、坪二〇〇〇円だから、合計八万四〇〇〇円だという。
しかし、地主はいった。
「親戚の者に約束してしまったので、あれだけは売れないんですよねえ」
「私はね、いま現金で七万五〇〇〇円持ってます。あれを七万五〇〇〇円で売るなら、即座に払いますよ」
地主は考え込んだが、返事はしなかった。
しかし、二、三日たつと、また店に来た。
「七万五〇〇〇円を現金で払ってくれるのでしたら売ります」
よほど金がほしかったとみえて、地主はそういった。 それで話が決まった。土地代金を支払い、中野の司法書士に頼んで不動産の登記をした。権利証の日付は昭和23年11月12日となった。 上総湊から来た静に、
「土地を買ったぞ。そのうちに、うちを建ててやるからな」
というと、飛び上がらんばかりに喜んだ。
「じゃあ、うちが建つまで、狭くてもいいから、みんなで屋根裏に住みましようよ」
私もそれがいいと思った。
妻と子供らは、11月中ごろ、宝来家の屋根裏に引越してきた。美栄が小学校三年生、一己が二年生だった。そして二人は、十二社の方にある淀橋第四小学校に転校した。

家族四人が住むようになったので、空気の流通をよくし、明るくするために、私は屋根裏部屋の前方に、横50cm・縦40cmほどの天窓を作った。外側に開け上げたときは、つっかい棒で窓板を支えるようにした。 買った土地に一日も早く家を建てたいと思った私は、毎日夜遅くまで働いた。ところが、昭和24年1月末ごろ、急に高熱が出て、起きていられなくなった。蒲団と毛布をあるだけ掛けてもらっても、寒くてふるえが止まらない。熱を計ると四〇度もあった。驚いた静が大急ぎで医者を呼んできた。
「これは肺炎になりますよ。何も処置をしなければ、命にもかかわります。ペニシリン注射がいちばん利くが、三本一万円です。それも現金でないとだめですなあ
」 静は必死で医者に頼んだ。
「頼みます、拝みます、お金はすぐ払いますから」
医者は承知して、私の尻に最初のペニシリン注射を打ってくれた。それから六時間ごとに二本目、三本目を打ってくれた。すると、あれだけのひどい熱が引き、すっかり楽になった。

当時静はよしと一緒にモツ切り串刺しをやっていた。商売は面白いと思っている様子だった。仕事が一区切りつくと、静は屋根裏に上がり、二人の子供とカルメ焼きなどを作って、骨休みをしていた。
或る日の夕方、大ぜいの客を前にして、私は元気よくやきとりを焼いていた。そのころになると、もう兵隊服ではなかった。とっくりセーターにズボン、鉢巻に前掛という、魚屋のような恰好だった。うちわを右手に持ってパタパタ煽ぎ、左手でやきとりの串を持って焼いた。
ところが、風が店先から中に吹き込んできて、店内が煙でもうもうとなり、目も開けていられないほどになった。 そのとき頭の上で声がした。
「お父さん、けむいよう、けむいよう」
店先にいたお客の一人が目を丸くしながら叫んだ。
「あーっ、あんなところに子供がいらあ」
私は店の前に出て上を見た。すると、美栄と一己が天窓から顔を出し、手で目をこすっていた。
「よーし、いま下へおろしてやるから待ってろ」
私は静にいって、子供らを下におろさせて、外へ行かせた。 そのころについて美栄の思い出がある。
「トイレに行きたくても、お店はお客さんでいっぱいだから降りられないでしょう。仕方がないから、天窓から屋根にのぼり、そこでおしっこしたのよ」
その美栄はまた、動物が好きだった。或る日、黒白ぶちの仔猫を拾ってきた。そして夜、一緒に寝た。翌朝、起きてみると仔猫がいなかった。
「ネコどこへ行ったの?」
美栄は顔色を変えて、狭い部屋のあっちこっちを探した。みんなも起き上がった。 すると、ぺチャンコになった仔猫の死体が出てきた。静が寝返りを打ったときに、それを下敷にしてつぶしてしまったらしい。
「お母さんのバカ、お母さんのバカ」
と、長い間泣いていた。

昭和24年の4月ごろ、店に飲みに来ていた大工のなじみ客と住居のことで話し合った。 六畳・四畳半の座敷と五坪ぐらいの土間のあるバラック住宅を建てたいが、いくらかかるかと聞いてみた。しかし、持ち合わせの金では外側を建てるだけしか出来ないという。私は、これから暑くなるので、急ぎたいと思い、まずそれだけでもやってもらいたいと頼んだ。
建築許可証が交付されるまでに一ヵ月かかった。当時は、釘、トタン、ガラス、畳その他すべて配給で、許可がないと何も買えなかった。だが、許可証が交付されてからは早かった。一ヵ月もたたないうちに、家の形が出来上がった。しかしそのままでは、浮浪者が入り込み、何をされるか分からない。そこで床板にむしろを敷いて、私が寝泊りすることにした。 あとは金が出来るたびに戸を入れたり、ガラスを入れたり、畳を入れて、真夏の暑い盛りの七月末にやっと完成した。
静と子供らは、ネズミの巣みたいな屋根裏から、広々としていて庭もある新しい家に、雀踊りするように引越して行った。 美栄と一己は、9月の新学期から、青梅街道の淀橋警察署に近い淀橋第一小学校に通うようになった。