西新宿物語

もうけ過ぎた生モツ卸し

モツの仕入れは、初めは電車に乗って運んだ。その後自転車になり、昭和26年春ごろはサイドカーつきオートバイになった。量も、石油罐で三杯、四杯となっていた。二、三の店から頼まれた分も入っていたからだ。 オートバイは、港区赤羽橋(国電浜松町駅の南西)のモーターボートの店で買った。大馬力のハーレーダビッドソンで、それにサイドカーをつけてもらったものだ。
休みの日、このオートバイで、佐原の生家まで飛ばした。 おやじの一三(いちぞう)と話していると、おやじがいい出した。
「久男の野郎が警察予備隊(のちの自衛隊)だとか何だとかいうのに入るってんで試験を受けに行きやがったんだが、あんなとこへ行つたってしょうがねえ。おめえ、野郎を新宿に連れて帰れ」
久男というのは一〇人兄弟の下から二番目で、私よりひとまわり下の弟だ。昭和26年で私は三四歳、久男が二二歳になる。 おやじは、私のすぐ下の弟、祐を軍隊で亡くしているので、「隊」という字がつくものは何でも嫌った。警察も嫌った。
「連れていこう」
私は承知した。連れて帰った久男は、私の家に同居した。 私は身長165cm、体重58kgで健康だ。久男は体格は私とあまり変わらないが、健康でぐっと若い。口数が少なく、いつも笑顔だ。

当時宝来家は、毎晩12時ごろまでやきとりと酒を売っていた。粗末なものだが、腰掛もあった。いろいろ工夫の末、タレの質もよくなり、現在のものとほとんど変わらないものになっていた。 店員は、私と久男と静だった。私の妹のよしは、十二社の仕事に戻っていた。
私は毎朝、久男をオートバイに乗せて、芝浦の屠殺場にモツの仕入れに行った。以前とちがって一日に何百頭もつぶすので、好きなだけ仕入れられた。 そのころ、やきとり屋をやっている人や、これからやりたいという人で、モツを売ってくれという人が多数いた。肉問屋に行っても買えるが、同じ値段なら私から買った方が鮮度がいいし、便利だからだ。私は、モツの卸し売りも、かなりな商売になると思った。
さっそく、その人たちの注文も引き受けて、一緒に仕入れ始めた。

昭和26年の後半ごろから、一日につぶす豚の頭数はますますふえ、やがて、一日に一〇〇〇頭もつぶすようになった。すると屠殺場でもいちいち目方を計って売っていたのでは日が暮れる。だから、一頭につきモツ五〇〇匁か五二〇匁として売った。しかし実際には、平均すると一頭につき六二〇匁ぐらいあった。一匁は三.七五グラムだ。だから一頭につき二一〇匁、つまり四五〇グラムぐらいが、只になった。四〇頭分買えば、一八キロが只になった。これはたいへんな余禄だった。

昭和27年春ごろには、需要がますますふえ、サイドカーつきオートバイでも間に合わなくなり、三輪自動車を買って仕入れを始めた。 そうなると、毎日、石油罐一本分ぐらいが浮いた。卸しで、いくらか儲けた上に、うちの店の一日分の材料が只になった。当時この辺では、原価五円ぐらいのやきとり一本を一〇円で売っていた。それをうちは原価が只で一本一〇円で売ったのだから、これはボロい儲けにちがいなかった。

しかし、こういうできすぎた商売は長くはつづかない。宝来家の狭い店の中に、仕入れたモツを山と積むと、買う人が次から次にやつてくる。三キロだ五キロだといってどんどん売り渡す。いやでも目立つし、よくない噂もひろがる。しばらくして、近所の親しい人に注意された。
「金子さん、税務署が二人、あんたの後を追ってるよ、カバン持って」
私はドキリとした。宝来家はまだ無届けのもぐり営業だ。掘っ建て小屋みたいなところで細々と商売をしているだけなら、税務署もだまっていただろう。しかし、やることが大きくなっている。うっかりすると、とことん調べられて、つぶされかねない。私は取りあえず、モツを買ってくれている人たちに事情を話し、モツの仕入れ方を教えて、卸し売りを中止した。
昭和27年3月になると、西武電車が新宿まで乗り入れするようになり、4月には砂糖の統制が撤廃され、民営の米屋も復活した。
昭和28年には、私たちも役所に正式に届け、もぐりから天下晴れての公認飲食店となった。