西新宿物語

花のやきとりキャバレー

昭和30年代に入っても、やきとりと酒はよく売れた。しかし、宝来家の店はいかにも小さいので、いくら夜12時ごろまで働いても、売り上げはタカが知れていた。モツも酒も、そのころは、いくらでも仕入れられるので、店さえ大きければ、売り上げを何倍も伸ばすことができる。そういうせっかくのチャンスをみすみす逃している感じで、残念無念だった。
ところが、昭和31年のはじめごろ、店舗を譲りたいという人の話を聞いた。当時、今の新宿西口会館や小田急デパートのところは、やはり安田組が建てたままのバラックのマーケットだった。その中の一店舗で、今の西口会館裏に当たるところの床屋だった。そのころは、線路際の道が駅西口改札所に通じていたので人通りも多く、場所としても申し分ない。敷地も10坪(33平方㍍)で、仲通りの宝来家の倍以上もある。権利金60万円で譲るという。
安田組は、屋台のときには、毎日ショバ代を取りにきたが、バラックの店になってからは、ショバ代はなかった。店舗の譲渡についても、間に入って金を取るということもなかった。
床屋の二階は、一階の店の三倍ぐらいの広さがある〝玉ころがし屋″だった。赤黒黄の玉をころがして、当たり外れをやる景品つきゲーム場だ。しかし、商売は上がったりになっていた。

そのころ、今の小田急デパートの裏に、〝大福キャバレー〝という、1~3階のやきとりキャバレーの元祖があった。そして、道を隔てて北側に、〝富士屋〝という、やはり1~3階の対抗的なやきとりキャバレーがあった。客はやきとりで焼酎を飲むのだが、めかしたホステスたちが接客サービスをする。これが人気を呼んで大繁昌だった。 玉ころがしをやっていたのは黄さんという台湾系の中国人だったが、それに目をつけた。戦後の「解放国民」時代に、統制品の売買で金をつかんだ人だ。黄さんは私に話を持ちかけた。
「金子さん、私と組んで〝やきとりキャバレー〝をやらんか。玉ころがしをやってたところをキャバレーにして、一階のやきとり屋から二階にやきとりを運ぶ。これは儲かるよ」
「そらあおもしれえ。だけど黄さん、女郎屋じゃあるめえし、2階から女が手を振って、『いらっしゃい、いらっしゃい』はないよ。一階にも女を置いて、2階とおなじようにやらなくちゃあだめだ」
私は何かで大きな商売をしたいと狙っていたので、好機到来と、それに飛びついた。

さっそく60万円を借金して床星に支払い、店を手に入れ、すぐさま店の改造にかかった。1階はカウンターと4つのテーブルを置き、店の南側に2階への大階段をつくった。2階には馬蹄型のカウンターを2ヵ所つくり、その前面にテーブルを8つ置いた。それに楽団の舞台も作った。
ホステスの募集をすると、若い女性も中年女性もわんさと来て、15、6人を採用するのに迷うほどだった。
店名は〝宝来やきとりキャバレー〝としたが、宝来家の内部では、仲通りの店を第一宝来家、こちらを第二宝来家とした。
第二宝来家は、私と静がやることにし、第一宝来家は、店員一人をつけて、弟の久男にやってもらうことにした。
やきとりキャバレーのやきとりは1本10円、焼酎はグラス1杯40円だった。梅割り、ぶどう割りも同じ値段だが、ぶどう割りに人気があった。そして、このグラス一杯の焼酎というのが、のんべえにはたまらない魅力があった。 1合桝の中にグラスを置き、それになみなみと焼酎を注ぐのだが、どっこいそこで止めない。焼酎が溢れて枡の中にこぼれ落ち、そこにひたひたと、少なくもなく多くもなく貯まるまで注ぐ。少しでも多めにこぼれて貯まると、客はこたえられない。手を使わずにグラスに顔を近づけ、表面張力でふくらんだ焼酎を、口をとがらせてそーっと吸う。焼酎は口に入り、のど元を通って胃に流れ、五臓六腑に染み亘る。グラスの半分ぐらいまで飲むと、桝に貯まった焼酎をグラスの中に移す。すると、グラスのかなり上までふえる。ここがまたいいところだった。
一般には、枡でなく、受皿という名の、縁の盛り上がった小皿が使われた。そして、小皿の方もなみなみとなるまで焼酎を注いだ。枡より皿が多かったのは、枡はこっそり持って帰られることが多かったからだ。
やきとりキャバレーの遊興飲食代は、今から思えば信じられないぐらい安かった。 やきとり5本で50円、焼酎2杯で80円、サービス料ゼロ、合計130円。これだけでもホステスの手を握ったりダンスをすることができた。 客一人の遊興飲食代は、平均すると200円から300円だった。せんじつめると、そのころは、女性の価値がまるで安かったということになる。

黄さんと私の一発勝負の野心を賭けた宝来やきとりキャバレーは、昭和31年4月に花々しく開店した。 大入満員というほどではなかったが、客はかなり来た。大学生が多かった。安いし、若い女がいっぱいいたからだろう。
私はYシャツで蝶ネクタイを締め、白服を着て張り切った。今までは、とっくりセーターに鉢巻、前掛という魚屋みたいな恰好だったが、キャバレーのマスターになって、大商売をするためだ。私は主に一階のカウンターにいて、接客サービスの指導をした。この一階には静がいてやきとりを焼いたが、ほかに3、4人のホステスもいて、接客サービスでの売り上げ倍増に働いていた。
2階は黄さんが采配した。4人のバンドがムードミュージックを演奏し、ショータイムにはストリップもやった。ホステスたちは、ショートスカートの10代の娘もいれば、着物の年増姉さんもいるで、色とりどり。12、3人が客の間を泳ぎまわってムードを高めていた。 店はまずまずの繁昌で、黒字には持っていけそうだった。しかし、15、6人のホステスの管理にはまったく気骨が折れた。ああでもないこうでもないが多くて、世話が焼けるなどというものではなかった。

昭和31年5月5日・6日の土・日曜日に、私は、第一・第二宝来家の店員たちと、宝乗やきとりキャバレーのホステスたちと、私の身内を連れて、箱根小涌園に店員旅行に行った。みんなを楽しい気分にさせて、明日からの仕事を、張り切ってやってもらいたいと思ったからだ。
ところが、この小旅行に、珍客が一人参加した。根本七保子という16、7歳の美少女で、私の娘美栄の友だちだった。当時美栄は、新宿の精華学園高等部2年生で、六本木のヴォーグ映画研究所の研究生にもなっていた。七保子さんは三田高校生で、やはりそこの研究生だった。二人は仲のいい友だちだったので、美栄は彼女に箱根店員旅行の話をした。すると、「私も連れていってもらえないかしら」というので、美栄が私に話して、参加させたというものだ。
この根本七保子さんが、のちに、インドネシアのスカルノ大統領のデビ夫人になった。当時の私らは、まさかこの少女が、そんなことになろうとは、夢にも思わず、ただ、「きれいな子だな」と思っていた。

春の早慶戦が終わった夜は、早稲田の学生が「わーわー」押しかけてきた。5人や6人ではない。20人ぐらいが、どかどか2階に駈け上がって行く。とたんにどなり始めた。
「ああ、愉快なり、愉快なり」
床板を踏み破らんばかりにどたんばたんやって、どうにも止まらない。 今まで静かに飲んでいた客が、2人、3人と、とてもじゃないという顔で店から出て行く。2階に上がって様子を見ると
、 「先輩、先輩」
とか何とかいって、知らない客のそばに行き、そこらにある焼酎でも、ビールでも、何でも気ちがいみたいに飲んでしまう。それからまた始める。
「ああ、愉快なり、愉快なり」
ホステスの女の子らは、耳に指をつっこんで、目をつぶって下を向いている。 生ビールの樽が2本、たちまち空になった。リーダーみたいな学生に聞いてみた。
「勘定はどなたが払ってくれるんですか?」
「兵隊勘定で頼むよ、マスター」
しかし、誰がどれだけ飲んで、誰がいくら払うのかさっぱり分からない。ジョッキで生ビールを飲むのもいれば、グラスで焼酎を飲むのもいる。やきとりを食うのもいれば食わないのもいる。適当に 金を集めるしかないと思っていると、外の方から、
「わーっ、あそこだ、あそこだ」
と、また10人ぐらいの学生が、なだれのように押しかけてきて、前からいた連中と一緒にやり始める。
「ああ、愉快なり、愉快なり」
こっちは不愉快で不愉快でたまらないが、どうすることもできない。 そのうち学生たちはいつの間にかいなくなり、ふっと静かになった。ところが、やれ安心と思っていると、またまた新手の学生たちが、「わーっ」と押しかけてきて、どったんばったん、
「ああ、愉快なり、愉快なり」
駅東口の交番付近では、学生たちに荒らされないうちにと、店を閉めるところが何軒かあったという。

黄さんと私が野心に燃えた宝来やきとりキャバレーの運命は哀れ儚なかった。6月初めの或る日の夕方、突然2階から火が出た。 そこにはホステスたちが十数人いたが、誰も怪我もなく逃げることができた。私は大事なものをできるだけ持ち出そうと粘った。しかし、火はどんどん激しくなる。割箸の束を掴んでうろうろしていると、下から息子の一己の声がした。
「おやじー、危ねえから降りろ、降りろ」
一己は高校1年生だったが、学校から帰って、店の手伝いにきていた。 消防車が来て放水を始めると、火は衰え、やがて消えた。2階内部はすっかり焼けたが、紙一重で外側は残った。1階は幸いに無事だったが、水浸しになって、すぐには商売ができなかった。 火事は、やきとりキャバレー開店後55日目の出来事だった。
しかし、何よりも、全焼しないで助かった。全焼していたら、その後の発展が不可能になるような致命的ダメージを受けたかもしれない。 私は、この店に100万円の火災保険をかけていた。10日前ぐらいに期限が切れていたが、保険会社に交渉して、30数万円の保険金を出してもらうことに成功した。すると黄さんが、おれにもよこせという。彼は一銭の保険料も出していなかったが、当然だという顔をしていた。腹が立ったが、半分渡して一切手を切ることにした。 一階は、やきとりキャバレーをやめて、第一宝来家と同じくやきとり専門の店にして、火災後三日めに再スタートした。私は白服を脱ぎ、蝶ネクタイをはずし、再び前掛を締めた。酒屋や肉屋がいってくれた。
「金は貸せないが、品物ならいくらでも貸すよ、金子さん」
第二宝来家はその後、むしろ、すっきりした商売ができるようになった。
この昭和31年7月には、経済白書で、「もはや戦後ではない」という発表があり、12月には、「神武以来の好景気」という言葉が生まれた。年末には、安いヤミ米が横行し、配給辞退の家がふえ、米の過剰時代が始まった。

第二宝来家から3、40㍍駅寄りにある〝大福キャバレー〝と〝富士屋″は、以前から互いに反対趣向で張り合っていた。片方が〝海軍キャバレー″をやると片方は〝陸軍キャバレー〝、片方が〝女学生アルバイトサロン〝をやると片方が何とかといったあんばいだ。 軍隊キャバレーというのは、マネージャーやボーイなどが軍服を着て客を迎える。注文すれば客も士官服を着られる。それをホステスたちがチヤホヤするといったものだった。 或る日の夕方、第二宝来家の店前を女学生のセーラー服を着た女が10人ぐらいぞろぞろぞろぞろと北の方へ歩いて行った。下着か靴下を買いに行くらしい。店にはお客が何人かいたが、みんな目玉を丸くしてそれを眺めた。
「なんだおやじ、あんな年取ったのがおしろいつけてセーラー服着て、お化けみてえによ」
「あれはね、〝ひめゆりの塔″で売り出している女学生なんとかサロンてんだ」
「そうかい、面白いな」
「面白いなつたって、母親と娘が一緒に勤めているのもいるつてんだから。『お姉さんを呼びましよう』っていうから、何だと思ったら、親子で指名料をかせぐんだなあ」
「親もセーラー服かい」
「そうだよ」
「ふーん、おれもいっぺん行ってみっかな」
うちの店に来た、そのキャバレーのマネージャーの話では、次のようなことだった。はじめ、セーラー服が似合いそうな若い子に一人だけ着せてみた。するとその子に1日に6つも7つも指名がきた。それを見たほかのホステスがみんな、「私も着たい」といい出した。
「セーラー服が着たかったら、明日は時間に遅れずに来なさい」
マネージャーがいうと、次の日は、遅刻ばかりしていた者まで時間通りに来た。その日は、くじ引きで5人にセーラー服を着せ、やがて全員に着せるようにしたという。 ホステス全員がセーラー服を着たところで、そのキャバレーは、〝女学生アルバイトサロン〟と名づけて宣伝をした。しかし、それに〝ひめゆりの塔〝とつけ加えたために、やがて週刊誌にこっぴどくたたかれた。沖縄で玉砕したひめゆり部隊の女学生たちを、キャバレーの商売に利用するとは何たることだとやられたのだ。

このキャバレーの経営者の商魂にはたまげる。銀座で料理屋もやったが、或るとき、生きた猿の脳みそを売った。こたつやぐらをひっくり返し、その中に手足を縛った猿を入れ、客の見ている前で鉄棒か何かで頭をパカンとやって、その脳みそを客に食わせた。それだけではなかった。客が脳みそに箸を出しているところをわざわざ写真に撮ってもらい、或る週刊誌に載せた。それで動物愛護協会から真っ向うにやられたのだ。
〝ひめゆりの塔〝や〝生きた猿の脳みそ〝で世間を騒がせることが宣伝になると考えたのかどうかは分からない。しかし、ふつうの人間が仰天して肝をつぶすようなことを、しゃあしゃあとやるおっさんだった。