西新宿物語

安田組が去って行く

昭和32年ごろになると、国電新宿駅の地下を通る荻窪線の工事が急がれていた。地下鉄を運営する帝都高速度交通営団は、新宿駅西口の少し北寄りのところから今の西口会館にかけての土地を東京都から買い取っていた。そしていよいよ、安田組マーケットの立ち退きを図った。
安田組の朝信組長は、安田組マーケットの地上権はおれのものだと主張したが、裁判に応ずるほかなかった。しかし、いくら戦後の復興に尽くしたといっても、他人の土地を不法占拠したことは否定できないので、裁判では勝ち目がなかった。 といっても、営団側にしても、一銭も出さずに「出ていけ」とはいえなかった。 結局、ある程度の立ち退き料を支払うということで、安田組はその地帯から手を引くことになった。
だが、生活がかかっている商店街の店主たちは、この土地で商売をつづけたかった。そこで、新宿西口事業協同組合をつくり、営団と再交渉し、裁判に持ち込んで争った。 安田組は手を引くことになったが、バラック商店街は残っているので、やくざの姿は、消えなかった。

終戦直後の昭和20年8月20日、テキヤ尾津組は、新宿駅東口一帯を不法占拠し、「光は新宿より」という宣伝文句で、よしず張りの〝尾津マーケット″を開店した。それにならい、テキヤ安田組は駅西口前から青梅街道までの焼跡に〝ラッキーストリート〝というマーケットをつくった。テキヤ和田組は駅南口周辺にマーケットをつくった。
安田組はもともと、青梅街道寄りに、今のわれわれの商店街の約三分の一の自前の土地を持っていたが、そのほかは、尾津組、和田組と同様に不法占拠だった。
昭和21年12月に、今の第一宝来家周辺にあった3、40軒の屋台が火事で全焼した。すると直ちにバラックのマーケットづくりを始め、またたく間に、駅西口前までに約300軒の店をつくった。それを、駅前あたりでは、一軒につき4、5万円で業者に売った。
安田組の子分たちは、当時、マーケット内を、肩で風を切って歩いていた。着流しで雪駄をカラカラさせて歩く者がいたり、黒シャツに白背広の者もいた。言葉も恰好も凄みを利かせるのが多かった。 私がやきとり屋を始めたのは昭和22年の初春で、それから三年間ぐらいは、手のつけようがないと思っていた。やきとり屋で一番困ったのは、タレをひっくり返されることだった。手塩にかけていい味になったものがなくなるからだ。
やくざ同士の殺傷事件は毎日だった。南へ行けば和田姐や極東組がいる。東へ行けば尾津組、和田組、野原組がいるで、縄張りをめぐる命知らずの争いが絶えなかった。ただ、安田組のマーケット内に、よそのやくざが来て掻きまわすということはなかった。
しかし、三年もたつと、やくざのやり口が分かり、それに応じた受け答えができるようになった。大きな声を出されても、どの程度のハッタリかが分かり、それなりに応対すればよかった。 また、威勢のいいのが近ごろ見えないと思うと、監獄に行っていた。やくざも監獄は嫌だから、つまらないことで警察に捕まるようなことはしたくない。
しかし、安田組も、組長以下子分たちがよく監獄に行った。やくざ稼業も易しくはなかったようだ。

昭和20年代の後半になり、いろいろの統制が緩和されてきたころ、商店会の主だった者数名が、朝信組長に呼ばれて、安田組事務所に行った。
商店会は、安田組マーケット内に八つあった。青梅街道寄りの線路際が柳会、仲通りが新宿会、小滝橋通り側が線会、地下道に通じる通りが伸通り商店街。ここまでは今も残っているわれわれの新宿西口商店連合会だ。西口会館と小田急デパート、京王デパートのところにも、そのころは四つあった。線路際が八部会(八番めに出来たところ)、駅近くが中之島商店街、公園側が新興会、それと京王駅前商店街だった。 お茶が出て、世間話をしていると、安田講の話となった。朝信組長は日蓬宗身延山の信者で、事務所の裏に身延山別院を建てていた。
──安田講に入り、身延山本山にお参りしたり、別院での節分などに参加してもらいたい。お寺には世間並みの寄付をしてもらいたい──と、組長はいった。 身延山別院は木造平家の寺で、5、60人が入れる大きな建物で、蔵もあった。 呼ばれた者たちは、それぐらいのつき合いならば反対することもない、組長のいう通りにしようということになった。組長は喜んだ。
「お前たちは特別な扱いにしてやる。こんどの節分の日は、すまんけど別院に行って、太鼓をたたいて、そこから駅前を通って、ずつと歩いてくれ」
当日、われわれは身延山別院に集まった。すると、「みんなこれを着ろ」と、紺の綿の半纏をわたされた。襟には安田、背中には大きな朝という文字が染め抜かれてあった。朝は朝信組長の朝で、綿は幹部が着るものだという。
われわれは、その半纏を着て、法華太鼓をどんつくどんつくたたいて新宿の盛り場を歩いた。 その後、安田組の子分たちは、私にも一目置くようになった。
「宝来家のおやじは古いし、親分ともそうとうの知り合いだからよ……」
余談になるが、後年、私のおやじにこの半纏を何も話さずに贈った。おやじは喜んで、佐原5の月の祭りにそれを着物の上にひっかけて出かけて行った。すると、土地のグレン隊たちが頭を下げ、前になったり後になったりして見る。
「タダ者じゃねえ」
恐れ入ったような不思議なような顔だ。おやじはさっぱり分からなかった。
(綿だからみんな見てんのかな。それにしちやあ、あのグレた伜がなんで俺に頭を下げるんだ?)
朝信組長の兄さんは、テキヤ関東早野会会長で、関東から東北地方にかけては誰知らぬ者がない。 知らないのは、そういう半纏を着ている当のおやじだけだった。 あとでおやじに会ったとき、
「おれは一向に分かんねえ。どういうわけだ?」
と聞かれて、驚くやらおかしいやらだった。

話を元にもどすが、社会の経済が立ち直り、秩序が正されてくると、安田組に対する法の締めつけもきびしくなり、新宿西口一帯での勢力は、次第に弱められていった。 今のわれわれの商店街の土地は、もともと三人の地主が持っていた。安田組と、不動産会社三光土地と、十二社に住む渡辺という地主だ。
昭和28年ごろ、安田組以外の土地を、それぞれの地主からひそかに買い取ろうとする或る商人がいた。安田組の南隣りの土地で商売をやっていた二十数軒の人たちは、それと知って三光土地と交渉し自分の店の土地を買い取る交渉を始めた。結局、登記は三光土地のままだが、各店は、店の部分の+地を買い取り、自分のものとして持つという形にした。
第一宝来家がある辺りの土地は、われわれの先輩の山官会長から「危いぞ」と聞かされたときは、すでに、その商人と渡辺さんが土地売買の話を決めていた。そこでわれわれは裁判に持ち込んで争った。その商人は、建物があって商売をやっている人には譲ると折れた。われわれは、〝新宿繁栄協同組合〝をつくり、渡辺さんが重役をしている平和信用組合から金を借りて、組合の名義で一括して土地を買った。こうして、各店は自分の土地を確保し、火事に遭ってもまた店を建てられるようにした。昭和28年のことだが、今にして思うと背筋が寒くなる。
安田組の朝信組長は、監獄に行ったり来たりしている間に、悪い子分に金を使われては逃げられるなどのことが重なり、財産を磨り減らした。そしてついに背に腹は代えられなくなり、西口一帯占領の基地としていた自分の土地も、それぞれの店に売り渡してしまった。
こうして安田組は、戦後に不法占拠した広大な土地に対する支配力を、だんだん失った。

しかし、まだ全面撤退をしたわけではなかった。昭和30年代に入っても、やくざが絡むいろいろな事件が毎日のようにあった。 或る日、東側に通じる地下道で、人が刺し殺されたという知らせがあった。それを静が見に行った。死体には新聞が掛けてあり、人相風態は分からない。すると、死体がぐーっと動いた。
「動いたー」
静は思わず大声を上げた。隣りで見ていた中年の男がいった。
「死後硬直のとき動ぐんだよ」
静は今でも、その時のことが忘れられないという。

昭和35年ごろ、第三宝来家(今の第二宝来家)の二階では、こんなことがあった。安田組の若い子分が、何かのひょうしに、そばの客に絡んだ。それを見て店員のりんがいった。
「そういう失礼なことをしないでください。あんたね、いくら安田組、安田組ってタンカ切るけど、人間には変わりないでしょう。こういうところへ来て、おれは安田組だなんて威張ったって、金子さんは驚きもしないよ。それよりあんたが悪いんだから、お客さんにあやまった方がりこうじやない」
たまげた顔でりんのタンカを聞いていたその子分は、
「恐れ入った」
と頭を下げた。彼女が30代の終わりごろだった。金子さんというのは私のことだ。
昭和36年4月になると、今の西口会館の土地のバラック街は取り壊され、ビル建設工事が始まった。ついで京王デパートの土地のバラック街も取り壊されて、ここもビル建設工事が始まった。やがて、小田急デパートの土地のバラック街も取り壊されて、ビル建設工事が始まった。

こうして、昭和30年代の終わりごろになると、西口会館以南の安田組マーケットは完全になくなった。 この間、安田組事務所や身延山別院の土地も裁判に負けて、本来の地主に返還させられていた。
現在、安田組が建てた。バラック商店街で残っているのはわれわれのところだけとなった。しかしこの商店街についても、安田組は何の権利も持たなくなっている。
一昨年私は、故朝信組長の七回忌の法事に行って、ご冥福を祈った。私は、組長が建てたあの戦後初のバラック・第一宝来家で商売をしたから、今も食っていけるのだと思っている。初めのころは、子分たちにいんねんをつけられたり、いやがらせをされたことが何度かあった。しかし、無理難題を吹つかけられて明日から店が開かないということはなかった。その意味で、私は、朝信組長の恩義に感謝しているからだ。