西新宿物語

娘と息子の涙の青春

娘美栄は昭和30年に精華学園高等部に入った。小柄で可愛い顔をしているのだが、反抗的な少女になった。 育ちぎかりのときにほっぼりっぱなしで、親の愛情がなかったことがいちばんの原因だったと思う。
もうひとつは、精華学園という学校の校風と美栄が合わなかったような気がする。 中等部の入試のとき、学校側は、父親の職業で選別している感じだった。商売で儲かっていると分かると入学できるというようなところがあった。
入ってみると、たいていは金持の娘たちで、うちのようにやきとり屋などというのは少なかった。それでバカにされるから、頭にくる。気の弱い娘だったら、いわれっぱなしでがまんするのだろうが、美栄は負けん気が強かったから、黙っていなかった。
「ふざけんじゃないよ、このノータリン!」
怒りを全身に渡らせて反撥し、やるならやってやるという調子なので、相手が危険を感じて引き下がるというのが多かったらしい。 当人はこんなことをいう。
「中学、高校時代から昭和40年代の終わりごろまでは、お父さんに対して『お父さん』といえる気特になれなかったな。自分だけ好き勝手なことをして、私たちにはちっとも思いやりがないと思っていたわ。 それから私も年を取って、人間のこともだんだん分かってくるし、自分の子供たちが中学、高校と大きくなってくると、親の苦労も分かってくる。それで、〝ああ、うちのオヤジもたいへんだったんだなあ〝と思うようになったのよ」

一己は昭和31年4月、第二宝来家でやきとりキャバレーを始めるころ、神田の東洋高校に入学した。学校から帰っても家にいるのがふつうだったが、私が用事で店にいない日は手伝いにきた。しかし、ふつうの人間が思いも及ばないほど心が繊細だったので、店では自分が一番下だと考えて、どんなことでも嫌がらずにやっていた。
美栄は33年3月に高等部を卒業して、4月から目白のドレメに洋裁を習いに通った。学校から帰ると、初めの第二宝来家に来て、静について手伝いをした。
昭和34年半ばに第三宝来家が開店し、4ヵ月ほど経ったころ、静と美栄には第三宝来家に移ってもらった。第二宝来家のお客を、だんだん受け入れてもらうためだ。 第二宝来家は、私と、その年3月に高校を卒業して18歳になった一己が中心になってやった。

そのころは、実のところ、なかなか辛いときだった。抜群に稼ぎ頭の第二宝来家は、やがて取り壊される。その代わりとして第三宝来家を買ったが、お客がさっぱりだ。果して、第三宝来家を繁昌させられるだろうか? ここが我慢のしどころだと思うが、内心は、人にいえないぐらい苦しかった。 一己は人の心を敏感に感じる少年だった。
「おいおやじ、これ早く飲んじゃえよ」
牛乳びんを突き出していう。
「なんだこれ、コーヒーか?」
「うん、あったかいうちに飲まねえとまずくなつちゃうからな」
「どこのコーヒーだ?」
「Aコーヒーさ、おれは飲んできたんだ」
こういうことがときどきあった。 私は、自分の弟の久男や、男女を問わず店員たちに煙たがられたが、一己はものすごいといえるぐらいにみんなから好かれた。私には真似ができない人間の親しみがあったからだろう。
一己は、店が終わった真夜中、第一宝来家にいる叔父の久男や、ほかの店員たちを誘って、大久保駅に近い朝鮮人部落によく行った。そこには、5、6人しか入れない小さくてぼろな飲み屋があった。みんなとどぶろくを飲み、キムチをつついて、嬉しそうだったという。 虐げられて、世間の隅で生きてきた貧しい朝鮮人たちの悲しみに、一己が共感していたとしか思えない。

昭和35年、20歳の美栄は、或る男の口車に乗って、百人町のバーの雇われマダムとなった。止めたって聞くものではなかった。けっこう繁昌したようだが、1ヵ月もすると、オーナーがいった。
「オーナーとママは、肉体的にも結ばれなくては、うまくいかないもんだ。どお、そろそろ」
美栄は怒った。
「ふざけんじゃないよ、そんな約束した覚えもないし、あんたなんかとできるわけもないよ」
一週間ぐらいすると、オーナーは二五歳ぐらいの女性を連れてきていった。
「君はもういいよ、この人がママになるから」
美栄は答えた。
「ああそーですか、スーちゃん。では私は帰ります」
スーちゃんというのは、オーナーの頭髪がスダレみたいだったからだという。 美栄はまた、新しい第二宝来家で、静と一緒に働くことになった。
昭和35年は私にとって我慢の年だった。
しかしこの年には、三種の神器(電気冷蔵庫、マイカー、カラーテレビ)熱が高まり、インスタント食品が出現した。単行本『性生活の知恵』がベストセラーとなり、世の中がますます欧米風になった。
昭和36年に入ると、いよいよ新宿西口会館建設工事が迫ってきた。私は第三宝来家を確保したが、第二宝来家がなくなったとき、果して今までのお客がそっくりそのまま第三宝来家に行ってくれるかと思うと、確信は持てなかった。そういう気特が、知らず知らずのうちに、顔や口に出たようだ。

昭和36年3月25日の土曜日は、春場所で横綱朝潮が5度目の優勝をするかどうかというときだった。だが私には、人生中最悪の不幸が訪れた。
息子の一己が、思いがけない事故で急死したのだ。くわしいことは、痛ましくてお話しできないが、あんな悲しいことはなかった。私は、自分も死にたいと思った。死んで一己と一緒にどぶろくを飲んで話し合いたいと思った。 静の嘆き悲しみも尋常ではなかった。うっかりしていると、息子の後を追いかねない様子だった。
しかし、私も静も死ぬわけにはいかなかった。どんなに辛い思いをしても、まだ生きていなければならなかった。 美栄が一己の身の回りを整理していると、勉強机の下に便箋があった。開いてみると、詩が走り書きされていた。美栄にそれを渡されて読んだ私は胸がつまった。静は声を上げて泣いて、泣き伏した。
自宅での告別式の最後に、私の弟の銀次郎が、道に並んだ参列の人たちを前にしてそれを読み上げた。

 あんな気丈な親御でさえも
 時にはつらくてぐちこぼす

 何が因果かこの商売
 十年たっても幸ならず
 いつか来るぞ幸わせが心にきめて働けど

 つづくは苦労の事ばかり
 店のお客が言ったっけ
 お前の親御ふけたって

 そんな時にはこの俺だって
 頭にジーンと来るものが
 知らず知らずに沸いて来る

 何も知らないこの俺だって
 親御の苦労が良くわかる
 俺には何も言わないけれど
 そんな苦労が子供の俺に教える人生の道なのと
 いつか小言でいったつけ

 そんな苦労をむだにせず
 親御になかった幸わせを
 作って見せるぞこの俺が

 それまで俺にいろんな苦労をお教え込み
 大きな気持を持つ日まで
 いつも俺をささえてくれる
 大黒柱になって居ると俺はいつも信じてる

 一度男に生れたら
 泣き事なんか言うもんか
 俺には俺の意地がある

 希望もあれば夢もある
 どんなに今がつらくても
 明日を夢見て生きるんだ

 幸求める俺達にゃあ若さがあるんだそうなんだ
 他人の小さな感情にゃあ
 負けるものかと心にきめりやあ
 こわい事なぞあるもんか

 こんな気拝で居る俺を
 あいつは俺を馬鹿にする
 今に見ていろこの俺は顔で笑って心で泣いて
 やがて幸あせ来る日まで

 しんのつかれる所まで
 誰が何んと言をうとも!!
 俺は明日を夢見て生きるんだ!!

                      一己

参列の人たちはみんな泣いて、一己の死を惜しんでくれた。
一己は昭和16年4月1日に生まれた。あと七日で満20歳になるところだった。
それから間もなく、西口会館建設工事が始まり、第二宝来家が取り壊された。