酒飲みの身になる修行

昭和24年2月には、戦争以来禁止されていた料飲店が公認されて開店した。ただし3月の経済調査庁の発表では、東京の料飲店三万軒のうち一万軒が無許可のもぐり営業だという。私ももぐりの一人だった。しかし、いくら公認の店でも、配給品以外の酒やビールは販売禁止だった。だからどの店も、割り当て品で足りない分は、一般家庭で飲まない酒やビールを買ったり、ヤミで買ったものを使っていた。ただし、どぶろくやカストリは非合法の密造酒なので、どう転んでもヤミでしか売買できなかった。
やきとり酒場をやるからには、酒の味と、酒飲みの気拝が分からなくては、ほんとの仕事はできない。そう思って酒の修行を始めたのは、百人町に住居が出来たあとだった。

戦前の私は下戸だった。正味一合半ぐらい入る徳利で日本酒をおやじと飲む。陸軍と海軍の旗が描かれたやや大きめの盃だ。おやじが一合ちょっと飲むので、私は五勺足らずだったが、それでもう精一杯だった。喫茶店をやっている友だちに聞いてみた。
「酒に強くなるいい方法があるか?」
「酒飲む前に〝めざましコーヒー〝を飲んでみろ、牛乳ぴんに入れて渡してやるから」
その夜、試しに〝めざましコーヒー″を飲んでみた。しばらくすると興奮してきたので、日本酒を銚子に入れて欄をつけて飲んだ。いつもなら、一本で飲めなくなるのだが、まだ飲めそうなので、二本目を飲んだ。ところが、まだ飲めそうだった。ついに三本目も空けた。
翌日、また〝めざましコーヒー″を買って飲んだ。昨日と同じように興奮して、酒がすいすい飲めた。銚子三本の酒を楽に空けることができた。その翌日になると、コーヒーを飲んだ時刻ごろ、やたらにコーヒーが飲みたくなった。これは麻薬か覚醒剤だと覚った。だが、もう一回と思い、また買ってきて飲んだ。こんどは銚子五本を空けてもまだ飲めそうだった。

ところが、そのまた翌日同時刻ごろになると、再びコーヒーを飲みたい衝動が激しく襲ってきた。
「こいつはだめだ、こんなことを繰り返すようになったら終わりだ」
そう思って私は、コーヒーなしで酒をぐい飲みした。たてつづけに二本、三本と飲んだ。間もなく酔いがまわり、感覚が鈍くなった。それでコーヒーから逃げた。あとで調べたところ、〝めざましコーヒー〝にはカフェインが入っていたらしい。危いところだった。酒に強くなりたければ、苦しくても、酒で修行すべきだと思った。
その後は、酒だけを飲んだ。悪酔いして二日酔することもあった。しかし、やがて酒も旨いと思えるようになった。

秋の終わりごろの肌寒い或る夜、閉店後、静を帰し、一升ぴんをわきに置き、カウンターの上であぐらをかいて、湯のみで酒を飲んだ。カウンターの下に真っ赤になった練炭の火鉢があり、その上に大きなヤカンがのっていた。私はぐびりぐびりやっているうちに酔っぱらい、いつの間にかカウンターの上で寝てしまった。
「君、君、もう3時だぞ、何やつてんだ」
誰かがゆり動かすので、起き上がってみると制服の警官だった。
「こんなところに寝てないで、帰んなさい、帰んなさい」
「へーい」
警官が去ったあと、左足のふくらはぎがおかしいと思い、ズボンをまくってみた。何か樟脳みたいな白いものがぶら下がっていた。
「何だこりゃ」
酔眼もうろうでよく分からない。引っ張ったが取れない。(まあいい、明日にしよう)と思って下を見ると、火鉢のヤカンからひゅうひゅう湯気が吹き出ていた。へべれけに酔っぱらっていたが、さすがに火は気にかかり、ヤカンをおろし、火を消した。それから千鳥足で百人町の家に帰った。
目が覚めると、外は明るかった。左足のふくらはぎがひりひり痛むので、起き上がって、見ると、白い大きな火ぶくれが出来ていた。昨夜のことを思い出した。酔っぱらってカウンターの上で寝たが、左足が外側にぶら下がり、そこへヤカンのロから吹き出す湯気がひゅうひゅう当たっていたのだ。これほどやられても気がつかなかったのかと、われながらあきれた。
「酔っぱらうとどうしようもねえな」
私は溜息をついた。

昭和25年春ごろになると、下戸だった私がイケるぐちに変わってきた。そのころ店に、映画監督の山本薩夫さんがちょいちょい来て、私を相手に大きながらがら声でしゃべったり笑ったりして飲んでいた。共産党だと聞いたが、共産党とはとても思えない面白い人だった。メーデーのとき、デモを見に行ったら、トラックに乗って、髪の毛を振り乱してカメラを回していた。その山本さんが、7月か8月に、二級酒の一升ぴんをぶら下げて、夜遅く、百人町の私のあばら屋に来てくれた。座敷に上がってもらったが、蚊がわんわん飛んでくるので蚊帳を釣った。薄暗い蚊帳の中で、あり合わせの口よごしみたいなつまみを肴に、茶碗酒を飲みながら、一晩中よもやま話をした。山本さんは、共産党の宣伝みたいな話はしなかった。私は、映画はあまり見ないので、山本さんがどんな映画を作ったのか知らない。さいきん、いくらか知っている人に聞いたら、「戦争と平和」「暴力の街」「真空地帯」「太陽のない街」「戦争と人間」といった映画を作つたということだった。
三十数年の間に、宝来家には、有名な人も何人か来た。このごろは来なくなったが、藤原弘達さんは、明治大学の助教授のころはよく来て、やはり大声のべらんめえで気焔を上げていた。国会の〝止め男〝の社会党大出俊さんが、この間、何年ぶりかで来た。
「なんだ、えらくなつちゃうと、さっぱり顔を出さねえな」
「いやあすまない、忙しくて忙しくて。ときにばあさんいるかい」
「ちかごろ足の工合いがちょっとよくねえもんだから、早く帰らせてんだよ。元気なんだがね」
「大事にしろよ」
ばあさんというのは静のことだ。
大出さんは、昔は兄弟でよく来てぐれた。兄さんは自民党で弟が社会党だ。兄さんは今、政治家をやめて病院長をやっている。

酒が飲めるようになってくると、酒の味も少しずつ分かってくる。また、酒飲みの気拝も少しずつ分かってくる。飲み屋をやるからには、この二つに通じて、客の心に通じるもてなしをしたいものだ、と思って修行をつづけた。しかしこれは、ちょっとやそっとで免許皆伝になれるようなものではなかった。

お酒呑むな 酒呑むなの
御意見なれど ヨイヨイ
(中略)
貴方も酒呑みの
身になってみやしゃんせ ヨイヨイ
(後略)

という「ヤットン節」は、翌年の昭和26年にはやった歌だが、酒の道もかんたんではないと思った。
前年をはるかに上まわり、昭和25年もいろいろな統制がどんどん解けて、ますます自由な世の中になってきた。2月には住宅建築制限が解除され、牛乳も自由販売となった。3月には木炭が自由販売となった。4月には魚と衣料の統制が廃止され、タバコの家庭配給も廃止されて自由販売となった。6月28日には朝鮮戦争が勃発したが、7月1日には味噌・醤油も自由販売となった。

©  宝来家 All Rights Reserved.
PAGE TOP