ここは俺自身の土地だ

昭和32年9月には、東京の人口が850万人を突破して世界一になった。
昭和33年4月1日には売春防止法実施で、全国3万9000軒、12万人の女が、この日から姿を消した。東京では、吉原遊廓はじめ墨東の玉の井、鳩の町や、新宿の二丁目、花園町などの色街が店を閉じた。われわれの商売には影響はなかったが、お客さんたちは、長い間、残念がる人が多かった。
ともかく、女性の参政権がいちばん物をいった出来ごとだった。
そのころ、地下鉄荻窪線の開通が一年後に迫り、地下鉄新宿駅の上の土地立ち退き問題が急を告げていた。その土地に店を持つわれわれは、新宿西口事業協同組合をつくり、立ち退きを要求する営団と裁判で争った。しかし、安田組が不法占拠した土地だったため、われわれの立場は弱かった。
協同組合は、賀屋輿宣、安井謙、田中栄一、林忠義氏などの国会議員に援助を頼み、その土地で商売がつづけられるように営団に働きかけてもらった。私も協組の一人で、営団との交渉に加わった。しかし、どうも、今まで通りの店をつづけることは難しくなってきた。私は、虎の子ともいうべき主力の第二宝来家が消失するときのことを思うと、夜もおちおち眠れなくなった。それに代わるものを手に入れなければ、宝来家は再び、戦後の出発点に戻ることになる。どうしても、代わりを見つけなければならないと思った。
昭和34年4月には皇太子殿下と正田美智子さんの結婚式があって、私もテレビで拝見した。

そのころ、変わり者の水仙屋が土地つきの店を売りに出しているという話を聞いて、ハッと思った。私はさっそく、あるじの山田さんに当たった。物件は、立ち退き問題に関係のない、第一宝来家の東の線路際通りにある敷地8坪の2階建てで、それを960万円で売りたいという。水仙屋は、その店と、その南隣りの店をやっていた。ところが、土地を買い漁る例の商人が地主の渡辺さんから、ひそかに南側の店の土地を買い取っていた。驚いた山田さんは、その土地を自分のものにするために、裁判にかけると、相手の商人は、金を払えば譲ると妥協した。山田さんは、北側の店の土地・建物を売って、金をつくるしかなかった。私はそれをぜひとも買いたいと思った。しかし、960万円は大金だった。
「800万円に負けてくれよ」
私が切り出すと、彼はあっさりうなづいた。
「いいだろう、お前さんのことだから」
私は、駅東側にある住友銀行新宿支店の次長を知っていたので、800万円の借入れを申し込んだ。支店長に会って話せというので会った。
「第一・第二宝来家ともうまくいっているんですが、第二の方が立ち退かされそうです。せっかく多数のお客をつくったのに、それがゼロになったんでは一生の不覚となります。あっちを買っておけば、お客さんに来てもらえる。ですから、ぜひ、800万円を貸してください」
「今いくらぐらいお持ちですか」
「200万円ばかりありますが、店の造作にかかっちゃいますから」
「じゃあどうしても800万円まるまるないとだめですな。分かりました。お貸ししましょう。だけど金子さん、水商売の人に800万円も貸すなんて、あなただけですよ」
「有難うございます。必ず成功させますから」
「いつから返済ができますか」
「店を開けた月から返します」
「そりゃ無理だろうなあ。3ヵ月後から始めてください」
「どうも重ね重ね有難うございます」
次長が日ごろから私に好意を持っていて、支店長によくいってくれたのと、支店長が私を見込んでくれたので、私は800万円を借りて、水仙屋から、のどから手が出るほど欲しいと思った土地つきの店を買うことができた。私は、(これで夢はつづく)と思った。

買った店は第三宝来家として、昭和34年6月30日に開店した。佐原から呼んだ25歳の神田がやきとりを焼き、たかという親戚の娘と、私の末妹のふくに店を守らせた。
しかし、第一・第二宝来家は相変わらず繁昌していたが、第三宝来家は、かなり長い間、さっぱりだった。支店長のいう通り、開店1ヵ月後からの返済など、到底できるものではなかった。約束通り3ヵ月後から返済を始めたが、それも第一・第二宝来家の売り上げから都合したものだった。近所隣りでは、これが話題となった。
「一本10円か15円のやきとり売るのに、800万円も金借りて、客もろくに行かねえようなあんなところ買っちゃって、あいつバカじゃねえか」
私は何をいわれても黙っていたが、腹の中では、(今に見ろ)と思っていた。

地下鉄荻窪線は、この昭和34年に開通し、新宿駅は人の出入りがますます多くなった。帝都高速度営団とわれわれの協同組合の交渉は、大詰めに近づいてきた。営団側の最終回答は次のようなものだった。
「4人の国会議員の先生方が保証人になるならば、200坪ほど貸しましょう。しかし、一人一人には貸せません。まとまった一つの団体が出来たら、それに貸します」
われわれはこれを呑むしかなかった。そこで、協同組合を解消し、株式会社新宿西口会館をつくり営団から土地を借りて、ビルをつくることにした。そしてその中に、われわれ組合員が、それぞれ店を出すことになった。しかし、その時点では、ビルの中の店で、商売を末長くうまくやっていけるかどうかということについては、誰も見当がつかなかった。これでまた商売がやれる、しかもこのビルは鉄下鉄改札口に通じる、いいじゃないかといったぐらいの考えだった。
株式会社新宿西口会館は、銀行からの借入れを決め、いよいよビル建設工事にかかり、まず、15年ほどつづいたバラック商店街の取り壊しを始めた。私らのかけがえのない、至宝ともいいたい第二宝来家も壊されることになった。
この話は、店を閉める数ヵ月前から、お客の耳にも入っていた。
「おやじ、こっちの店、だめになるんだってな」
「はい、その代わり、向こうにつくっときました。この倍入りますから」
私は来る客来る客にそういって、第三宝来家に行ってくれるように頼んだ。

さて、それから、西口会館が完成し、それぞれの店が開店できるようになるまでに、2年7ヵ月かかった。その長い間、待つだけで、商売ができない人が多かった。幸い、私のところは、第三宝来家を開業していたので、利益は少なかったが、その間も精いっぱいに働けた。そうなると、またこの界隈の話題になった。
「金子ってやつは目先が見える野郎だ」
「月10万、いや20万円でもいいから、貸してくれる店がねえかな」
私は思った。(それ見ろ。2年前はバカ呼ばわりされたが、俺の方がまちがっていなかったのだ)

昭和38年11月1日に開店した8階建ての新宿西口会館は雑居ビルで、われわれ飲食店もあるし、物品販売店もあるし、キャバレーもあった。初め客がどっと来て、どの店も商売繁昌だった。私も3階で天ぷら屋、カレー屋を開いたが、この調子がつづけばいいあんばいだと思った。
当時、この近辺の商店ピルは、一年前に開店した小田急ハルクだけだった。
昭和39年は東京オリンピックの年で、この年の5月には、新宿駅東口の国鉄駅ビルが開店し、11月には西口の京王線新宿駅の上に大きな京王デパートが開店した。
それでも西口会館の商売は、その後もまずまず順調につづいた。ところが、昭和43年に、京王デパートと西口会館の問に、一段と大きな小田急デパートが開店すると、会館への客足が次第に減り始めた。一方、第三宝来家は、第二宝来家が取り壊されてからは、第二宝来家として商売をつづけていた。西口会館の工事期間中は、繁昌といえるほどではなかったが、それでも、いくらかの黒字を出せた。それにここは、土地・建物が私個人の名義になっていたので、安心して、やりたいようにやれた。
仲通りの第一宝来家の土地は、昭和28年に、新宿繁栄協同組合名義で登記されたままだった。だが、組合と私の間では、その土地は私個人のものという文書が取り交わされていたし、土地代金の支払いも済んでいた。私と同じ形式になっている人は十数人いた。そして、今まで通りでいいか、或いは、個々の名義に直した方がいいかということが、西口会館の客が減ってきた昭和43年に、組合の議題となった。

相談の結果は、個人名義に変更した方がいいということになった。
だが、単純に手続きをすると、土地売買の形となり、組合は多額の税金を納めなければならない。組合といっても、個人個人の集まりだ。すると結局、われわれ自身が税金を払わなければならない。これはバカげている。そこで経理士に相談し、税務署に事情を説明して、少ない税金で済むように納得してもらった。間もなく、第一宝来家の土地も私個人の名義で登記された。
私はこれで、第一・第二宝来家の土地については何の不安もなく商売ができると思った。第一宝来家は客席が一二人ほどなので、お客が少なくて困ることはなかった。しかし、新第二宝来家は五五人ほどの客席なので、満席にするというのは、しばらくの間できなかった。
ところが、我慢をして、地道な努力をしているうちに、昭和40年代になると、お客が入りきれないほどの大繁昌になる。そのことは、のちに述べたい。

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